車の歴史
更新日:2018.11.08 / 掲載日:2018.05.26

名車探訪 TOYOTA パブリカ(初代)

試作研究に6年、トヨタが示した国民車への回答

国民車構想が発表される1年以上前から、トヨタは700cc級の大衆車の試作を始めている。この時代、車検や税金、免許の点で有利だった360cc枠にこだわらなかったのは、来るべきハイウェイ時代を見据えていたため。1.5L級に近い最高速度と軽自動車並みの販売価格を目指し、その研究開発には6年以上という長い歳月が費やされた。また発売後も毎年のように改良が加えられ、その大衆車造りのノウハウは、世界的ベストセラーカー「カローラ」へと引き継がれていった。

108万通を超える公募で決まった車名「パブリカ」

第7回全日本自動車ショーでお披露目されたこの新型大衆車は、ショー終了後には長谷川主査とともにテレビでも公開される。また当時人気の乳酸菌飲料「森永コーラス」とのタイアップ(100台が当たる)や車名の公募など、その大掛かりな事前広告は大きな話題となった。

パブリカ変遷
1956年   前輪駆動試作車「1A1型」開発開始。
1961年6月 パブリカ発表(2ドアセダン=38.9万円)。
1962年5月 ライトバンを追加。
   10月 第9回全日本自動車ショーにパブリカスポーツを参考出品。
   11月 セミオートマチックの「トヨグライド仕様」を追加。
1963年7月 リクライニングシートやラジオを標準装備した「デラックス」を追加。
   10月 コンバーティブルを追加。
1964年2月 トラックモデルおよびパネルバン追加。
   9月 マイナーチェンジ(エンジン出力を32PSにアップ、安全性の向上など)。
1965年2月 スポーツ800発売。
1966年4月 マイナーチェンジ(排気量を800ccに拡大、フロントノーズ形状など外装も大幅変更)。
   10月 45PSの高性能エンジンを積んだ「スーパー」追加。
   11月 コンバーティブルにFRP製のディタッチャブルトップ仕様を追加。
1967年4月 改良(セパレートシート拡大採用、ミッションフルシンクロ化など)。
   11月 派生車「ミニエース」(トラック)発売。
1968年2月 フロアシフト車拡大。標準エンジンを40PSにパワーアップ。
   10月 ミニエースにワンボックスタイプ(2人乗りルートバン/4~5人乗りバン/7人乗りコーチ)を追加。
1969年4月 2代目に移行。

国民車構想に先駆けて 始まっていたトヨタの 大衆車開発の試み

 日本のマイカー元年は、カローラとサニーが登場した1966年というのが定説だ。しかし、そこに至るまでには多くのドラマがあり、先駆者がいた。その発端は’55年に明らかになった通産省(現・経産省)の若手官僚による国民車育成構想。そして先駆者の代表が、’61年に発売されたパブリカだ。
 国民車育成構想は最高速100km/h以上、4人乗りで10万km以上の信頼耐久性を備え、60km/h定地燃費30km/L以上といった目標をクリアしたメーカーを、政府が支援するというもの。技術的課題がクリアできず、メーカーの賛同が得られずに廃案となったものの、構想は大きな注目を浴び、示された数値は、各メーカーの開発目標ともなった。
 事実パブリカもそれに近い内容を持ち、国民車として話題を集めることになった。ただし、じつはパブリカは国民車構想に応えて誕生したのではなく、また最初から売れたわけでもなかった。
 トヨタで大衆小型車の研究が始まったのは、国民車構想に先駆ける’53年頃。すでに初代クラウンの開発も進められていたが、研究されていたのはそれより下のカテゴリーだ。国民車構想が報じられた’55年春には、当時の豊田英二専務自身による仕様書が、開発チームに提示されていたという。
 その内容はモノコックボディを持つ4人乗りの2ドアセダン。500~600ccの空冷2気筒エンジンで、駆動方式はFFといった詳細なもの。経済的で使いやすく、だれもが手の届くマイカーの理想像を追求したものだった。
 国民車構想によってマイカー時代の期待が高まるのを受けて、豊田専務は開発を急がせ、’56年9月には1A1型と呼ばれる試作車第一号をマスコミに公開する。ただし、意欲的なその試作車は、まだ市販できるレベルにはなかった。
 軽量コンパクトを追求した空冷水平対向2気筒エンジンは目標性能に到達せず、前例のないFF方式は登坂性能不足やサービス性の悪さ、コストなど、解決すべき課題が山積していた。3年間、計14台の試作車で走り込んでも、完成のめどは立たない。
 その一方で、トヨタはこの大衆車を’61年に発売することを決め、専用工場の建設にも踏み切った。もはや一刻の猶予もない状況の中、’59年に市販型の主査に指名された長谷川龍雄は決断を下す。それまでの膨大な開発費を諦め、FR方式の採用を宣言したのだ。
 かくして、滑り込みセーフのスケジュールで完成にこぎつけた新型車は、公募によるパブリカの車名で世に出たのだった。

●主要諸元(2ドアセダン・初期型 ’61年式)
○全長×全幅×全高:3520mm×1415mm×1380mm ○ホイールベース:2130mm ○トレッド(前/後):1203mm/1160mm ○車両重量:580kg ○乗車定員:4名 ○エンジン(U型):水平対向2気筒OHV697cc ○最高出力:28PS/4300rpm ○最大トルク:5.4kg・m/2800rpm ○燃料タンク容量:25L ○最高速度:110km/h ○燃料消費量(平坦舗装路):24km/L ○最小回転半径:4.35m ○トランスミッション:前進4段、後進1段 ○サスペンション(前/後):ウィッシュボーン式独立懸架/半楕円板バネ ○タイヤ:6.00-12 2P ○価格:(東京地区)38万9000円

  • 水平対向エンジンのためボンネットは低く、フロントウインドウが立ち気味で面積も大きいため、前方視界は優秀。

  • ドアは左右ともに施錠ができた。

  • 120km/hまでの速度計には、20km/hすぎ、40km/h手前および60km/hすぎの3箇所に変速を促す赤いマークが記されている。警告灯はダイナモ、油圧、ハイビーム、4L以下で点灯する燃料灯。

  • 座面はベンチタイプだが、背もたれはセパレートで後席乗り降りのための前倒しができた。またネジを緩めて一体で5cmのスライドも可能だった。

  • 後席のサイドウインドウは上部がヒンジとなり、下側が少々開く。室内の換気に有効であるばかりでなく、後席に座る人の肘掛けの代わりにもなった。

  • スペアタイヤはくぼみに収まり、フラットなトランク。

  • 空冷エンジンは軽量、かかりがよいなどの長所があるが、騒音や振動の大きさが弱点。700ccで28PSという数値は平凡だが、耐久性と低速トルクが重視されたためともいえる。

  • 3つのペダルはいずれも吊り下げ式。

車種追加と改良で販売台数を回復

38.9万円という価格は、当時のスバル360(37.5万円)と同等。しかし販売は低調。パブリカに対抗して発売された軽のデラックス仕様に人気を奪われてしまったのだ。トヨタは改良、車種追加/価格改定でこれに対抗。パブリカは右肩上がりで販売台数を伸ばしていく。

コンバーティブル
1963年7月に内外装を豪華にしたデラックスを追加。販売台数を大きく伸ばしたパブリカは、同年10月、デラックスをベースに屋根を取り払ったコンバーティブルを発売。月販100台前後と販売は少なかったが、パブリカのイメージアップに大いに貢献した。大きな後席窓ガラスは取り外しができた。

突きつけられた現実。 大衆が求めたのは 質素より贅沢だった

 長谷川主査は元航空機エンジニアだった。戦時中には20代の若さで高高度戦闘機の開発責任者を務めたほど優秀な彼は、合理的な判断でパブリカにFR方式を採用した一方で、同じ合理精神で理想の大衆小型車を目指した。
 当初は500ccで構想されていたエンジンを、建設が始まっていた高速道路を余裕をもって走れるよう、700ccに拡大。軽合金部品の多用で軽量化を徹底し、大型プレス部品を使ったボディ構造で精度や生産性も向上させた。
 FRの採用で前後50:50の重量配分を実現させ、当時としては贅沢な12インチタイヤによる快適な乗り心地とロングライフを両立。ボディの塗装には当時最先端技術だったディッピング(どぶ漬け)を施して防錆性能を高めるなど、真にユーザーのためのクルマを作り上げたのだ。
 ところが、その想いはすぐには大衆に届かなかった。満を持して発売されたパブリカは、思ったほど売れなかったのだ。発売から8か月が過ぎた’62年2月までの累計販売台数がようやく1万台。同年4月の販売台数が2000台では、月産1万台の生産能力を持つ専用工場が泣く。
 マイカー時代の呼び声こそ高まったものの、大卒初任給がまだ1万円そこそこの時代。38万9000円の値付けはバーゲン価格といえたが、庶民には高嶺の花だ。一方、なんとかマイカーが買える層は、低価格と引き換えに質素で色気に欠けるパブリカではなく、同予算ならフル装備の上級グレードが買えるスバル360などの軽自動車を選んだのだ。
 難局を打開するため、長谷川主査はパブリカに次々とバリエーションを加えてテコ入れを図った。’62年春に商用バンを加えて好評を得ると、同年秋にはこのクラスでは珍しかったAT車も投入する。中でも効果があったのが、’63年夏に発売した、ラジオやヒーターを標準装備としたデラックスだ。
 さらにその秋にはコンバーティブルまで投入。貧乏くさいクルマのイメージを払拭したパブリカの販売は、ようやく軌道に乗る。’63年暮れに月販3000台を達成、東京オリンピックで日本中が沸いた翌年秋には、4000台を超える。
 静粛性や信頼性の向上など、クルマとしての本質にも毎年のように改良を加えながら、パブリカはついに大衆の望むマイカー像を探り当てたのだった。
 その経験が、長谷川に次のクルマの企画を急がせた。「自分で生んだパブリカを見捨てるのか」という社内の声を押し返して、彼はカローラの企画を通すのである。

パブリカから 生まれた ライトウェイトスポーツ

朝鮮戦争で活躍した米国のジェット戦闘機F86Fセイバーをイメージしたという空力デザイン。ウレタンフォーム・サンドイッチ構造などによる徹底的な軽量化。パブリカから生まれた実験車は、名車トヨタスポーツ800へと繋がっていった。

名車「ヨタハチ」は 飛行機屋らしい 技術実験から生まれた

 多くの航空機エンジニアがそうであるように、長谷川は技術で高みを目指すロマンチストでもあった。まだ発展途上にあった自動車に航空機技術を導入することで、空では潰えた夢を託してもいた。そんな彼の一面が生み出したのが、トヨタスポーツ800だった。
 その企画はトヨタ社内ではなく、トヨタ傘下の車体メーカー、関東自動車工業の幹部と長谷川との雑談から始まったという。同じ航空機エンジニア出身の同社幹部と会話する中で、空力性能の追求や、鋼板で樹脂をサンドイッチすることで軽量化と剛性を両立させる車体構造の研究へと話が進んだのだ。
 ただし、トヨタ社内や長谷川自身は市販車のプロジェクトで手いっぱい。そこで長谷川は設計やデザイン、試作などの実務を関東自動車工業に委託する契約を、トヨタ上層部に認めさせる。そうして、パブリカの主要メカニズムを使い、CD値0・31という驚異的な空力性能と軽量ボディに、まるで戦闘機のキャノピーを思わせるスライドドアを持つ実験車、145Aが2台、試作された。
 そのうち一台が’62年の第9回全日本自動車ショーにパブリカスポーツとして出展されると、予想を上回る反響を呼んだ。販売現場からも、パブリカの販促のために市販化を望む声が上がり、トヨタ上層部もそれを認めた。
 試作車はあくまでも実験車で、市販を前提としていなかったが、長谷川はその声に応え、通常のドアや、キャノピーの代わりに脱着式のルーフで生産性や実用性を満たした魅力的なスポーツカーを作り上げ、’65年に世に出したのだ。
 もっとも、長谷川は販売部門から要望されたパブリカスポーツの車名を蹴り、輸出を検討する社内の声にも応えなかった。革新的なコンセプトのそれは、大衆車のパブリカとは一線を画すスポーツカーである一方で、品質保証の点ではまだ海外市場には出せないクルマと、彼は冷静に判断したのだ。
 そんな長谷川は、やはり自身が開発を率いたセリカが誕生するまで、スポーツ800を業務の足として乗り回し、まだ高速道路もなかった東京~名古屋間の移動にも喜んで使ったという。スポーツ800は合理性やビジネスとは違うところから生まれた、彼の眼鏡に叶う作品であったことを物語る。
 マイカー時代黎明期の当時、スポーツ800は4年間で約3200台が販売されたに過ぎない。しかし、その志は約半世紀後、若きエンジニアに受け継がれる。2012年に誕生した86の開発エンジニアが目指したのは、まさに現代版のスポーツ800だったのだ。

パブリカのシャシー、エンジンを使用して、どうすれば本格的なスポーツカーが造れるか。その決め手は航空機技術をバックボーンとした空力特性と軽量化にあった。関東自動車工業のデザインには、スライド式キャノピー案のほか、跳ね上げ式キャノピー案もあったという。


提供元:月刊自家用車


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