車の最新技術
更新日:2026.07.24 / 掲載日:2026.07.24

交通事故を減らす次の一手は「認知のエンハンス」【池田直渡の5分でわかるクルマ経済】

文●池田直渡 写真●トヨタ、トヨタモビリティ財団

 交通事故をなくすにはどうすべきか。自動車の歴史は、事故撲滅への挑戦の歴史でもある。実際、日本の交通事故による死者数は、ピークとなった1970年の1万6765人の「交通戦争」の時代から比べると、年を追うごとに大幅に減少してきた。道路整備や交通規制の強化に加え、シートベルトやエアバッグ、車体の衝突安全性能向上など、数え切れないほどの取り組みが積み重ねられてきた成果である。近年ではABSやESC、さらには衝突被害軽減ブレーキなどの先進安全技術が普及し、クルマ自身が事故を未然に防ぐ役割まで担うようになった。

 もちろん、だからといって交通事故がなくなったわけではない。特に2020年代に入って初めて3000人を切って以降は減少幅が縮小し、ほぼ横ばい状態となっている。2025年に最少を記録したとは言え2547人。減少ペースが落ちている中で重要なのは、「どのような事故が残っているのか」である。全体として見ればクルマ対クルマの事故は大幅に減少したが、クルマ対人、それも高齢者とこどもの事故がどうしても減らないのだ。

日本の交通事故死傷者の推移(警察庁のデータより)

 運転という行為は、大きく分ければ「認知」「判断」「操作」の3つの段階で成り立っている。まず周囲の状況を認識し、次にその情報を基に危険かどうかを判断し、最後にブレーキやステアリングを操作する。この流れは、人間が運転する場合でも、自動運転システムでも基本的には変わらない。これまでの安全技術は、このうち主として「判断」と「操作」の精度を高める方向へ進化してきた。

 技術が十分に進歩していなかった時代には、例えば急ブレーキでタイヤがロックしてしまう、滑りやすい路面で車両姿勢を立て直せない、あるいは前方不注意でブレーキが遅れるといった、人間の判断や操作に起因する事故が数多く存在した。これらは安全技術の進歩、つまりABSやESC、さらには先進運転支援システム(ADAS)の普及によって着実に減少してきた。安全技術は「操作の補助」から「判断の補助」へと守備範囲を広げてきたのである。

 もちろん、その背景には車載センサーの著しい進歩がある。カメラの解像度は向上し、ミリ波レーダーやLiDARも実用化された。画像認識AIも飛躍的に進歩し、以前なら見落としていた歩行者や自転車も高い精度で認識できるようになっている。しかし、ここでひとつ見落としてはならないことがある。

 これらの技術は、あくまでも「見えている対象」を、より確実に認識するための技術だということである。人間が一瞬脇見をしたとしても、車載カメラは前方を見続けている。人間が夜間に見落としてしまう歩行者も、高性能なセンサーなら認識できる場合がある。つまり、「見えているのに見落とした」という状況には極めて強い。しかし、「そもそも見えていない」という状況では話が変わる。

 高齢者やこどもの事故が減り切らない理由もここにある。危険予測能力が十分ではない歩行者は、ドライバーの予測を超えて死角から道路へ飛び出すことがある。これまでの技術はこうした事故の抑制にも一定の効果があったはずだが、さらに事故を減らそうとすれば、操作能力でも判断能力でもない。その一段手前にある「認知能力」そのものを、どう拡張するかに踏み込まざるを得ない。

 センサーの死角にいる歩行者をどう認知するのか。例えば交差点の角に建物がある。あるいは路肩に大型車が止まっている。その陰から歩行者や自転車が飛び出してきた場合、ドライバーから見えないだけでなく、車載カメラやLiDARからも見えない。センサーの性能が低いからではない。そこには物理的な遮蔽物が存在し、情報そのものが届いていないのである。

トヨタ MIRAI、レクサス LSに採用されたマルチセンシングシステム。車両の360度をカバーするが、システムが認識できるのはセンサーの範囲内に限られる

 そして、こうした原因で認知が遅れれば、そこからクルマの全性能を発揮しても停車できない物理限界がある。 つまり現在の安全技術が直面している課題は、「もっと高性能なセンサーを作れば解決する」という種類の問題ではない。車両という一つの観測点から周囲を見ている限り、どうしても越えられない限界が存在するのである。

 この問題に対して、センサーの高性能化は本質的な解決にならない。どんなに高性能なセンサーであっても死角は存在するのだ。例えば視界の悪い交差点の陰に歩行者がいるとする。こうなるとお手上げだ。カメラの画素数を何倍に増やしても、LiDARの測距精度をどれほど高めても、建物の向こう側にいる歩行者は見えない。そこへ光もレーザーも届かない以上、情報そのものが存在しないからである。

 この問題を解決しようとすれば、自車の車載センサー以外のセンサーを利用する他にない。そう考えれば、解決策の方向性も見えてくる。車両から見えないのであれば、見える場所に別の目を置けばいい。例えば交差点に設置したカメラやレーダーが、建物の陰にいる歩行者を検知する。その情報を接近してくるクルマへ伝えれば、車載センサーが直接対象を視認していなくても、「そこに歩行者がいる」という事実を知ることができる。あるいは、自車からは死角になっている場所でも、先行車や対向車はすでに対象を認識しているかもしれない。情報を共有できれば、課題である認知能力は大きく向上する。そして、今その死角を補うセンサーとして注目を集めているのがスマートポールである。

スマートポールとは、街灯や信号機などの既存インフラに、通信アンテナや防犯カメラ、デジタルサイネージなどを一体化させた次世代都市インフラ

 ここまで読んで、「そんな話は昔からあったのではないか」と感じた読者もいるだろう。道路側の設備とクルマが情報をやり取りし、安全性を高めるITS(高度道路交通システム)の構想そのものは、1970年代から研究されてきた。交差点の情報を道路側から提供したり、通信によって危険を知らせたりするアイデアは決して新しいものではない。

 にもかかわらず、ITSは残念ながら事故防止の決定打的存在にはならなかった。理由は単純である。当時は道路側で危険を検知できたとしても、その情報をクルマへ届け、それを安全運転へ結び付けるための車両側の仕組みが規格化されていなかったからだ。通信速度や通信コストは現在とは比べものにならず、車載機器も限られていた。危険情報を受け取ったとしても、それをドライバーへ分かりやすく伝えるインターフェースも十分ではなく、まして車両が自らブレーキやステアリングを制御する時代ではなかった。道路側が持つ情報を活用したくても、それを受け止める器が存在しなかったのである。

 転機となったのは、2021年から始まった衝突被害軽減ブレーキ(AEB)の義務化だった。もちろん、それ以前からADASを搭載した車種は存在していた。しかし、この頃を境に先進運転支援システムは一部の高級車だけの装備ではなく、新車にとって当たり前の機能へと変わり始めた。同時に、車載ディスプレイをはじめとするヒューマン・マシン・インターフェース(HMI)も急速に進化した。危険情報をドライバーへ分かりやすく提示し、必要に応じて警報を発し、場合によっては自らブレーキを作動させる。つまり、クルマは外部から受け取った情報を運転支援や車両制御へ反映できるプラットフォームへと進化したのである。

 こうなると、道路側や他車が持つ情報の価値は一気に高まる。従来のITSは、「情報を伝えること」が目的になりがちだった。しかし現在は違う。道路側や他車が取得した情報を、車載センサーが取得した情報と統合し、一つの運転支援システムとして利用できる環境が整いつつある。つまり、半世紀前に描かれたITSの構想は、ようやく主役になれる時代を迎えたのである。

衝突被害軽減ブレーキやコネクテッド、多彩な情報を表示できるインターフェイスなど、車両側の機能水準が上がったことがスマートポール構想の推進力にもなっている

 ここまで見てきたように、安全技術の進歩は、「操作」「判断」、そして「認知」へと、その対象を少しずつ上流へ移してきた。ABSやESCは操作を支援し、衝突被害軽減ブレーキは判断を支援した。そして今、ITSや路車協調、V2Xが目指しているのは、そのさらに一段手前にある「認知」の支援である。この変化を別の見方で表現すれば、スタンドアローンからネットワークへの転換と言える。

 ネットワーク化された交通システムでは、道路インフラや周囲の車両が取得した情報も利用できるようになる。つまり、一台のクルマが持つ認知能力は、自車のセンサーだけではなく、交通システム全体へと拡張されるのである。だから筆者は、この変化を「認知のエンハンス」と呼びたい。「エンハンス」とは、単なる性能向上ではない。人間が本来持っている能力を外部の力によって拡張するという意味である。道路側のセンサーや他車の情報を利用することで、これまで見えなかった危険を認知できるようになるのであれば、それはセンサーの高性能化ではなく、認知能力そのものの拡張と言うべきだろう。

 交通事故をさらに減らすために必要なのは、クルマ一台を万能にすることではない。それぞれが持つ情報を持ち寄り、一台では見えない危険を社会全体で見えるようにすることである。認知のエンハンスを可能にするスマートポールの普及を急ぐ理由はそこにある。

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池田直渡(いけだ なおと)

ライタープロフィール

池田直渡(いけだ なおと)

1965年神奈川県生まれ。1988年企画室ネコ(現ネコ・パブリッシング)入社。取次営業、自動車雑誌(『カー・マガジン』『オートメンテナンス』『オートカー・ジャパン』)の編集、イベント事業などを担当。2006年に退社後スパイス コミニケーションズでビジネスニュースサイト「PRONWEB Watch」編集長に就任。2008年に退社。以後、編集プロダクション、グラニテを設立し、クルマのメカニズムと開発思想や社会情勢の結びつきに着目して執筆活動を行う。

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1965年神奈川県生まれ。1988年企画室ネコ(現ネコ・パブリッシング)入社。取次営業、自動車雑誌(『カー・マガジン』『オートメンテナンス』『オートカー・ジャパン』)の編集、イベント事業などを担当。2006年に退社後スパイス コミニケーションズでビジネスニュースサイト「PRONWEB Watch」編集長に就任。2008年に退社。以後、編集プロダクション、グラニテを設立し、クルマのメカニズムと開発思想や社会情勢の結びつきに着目して執筆活動を行う。

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