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更新日:2026.07.03 / 掲載日:2026.07.03

EVの未来は誰が支払うのか【池田直渡の5分でわかるクルマ経済】

文●池田直渡 写真●甲田岳生、池田直渡

 前回、筆者は700km級EVの登場によって、EVの課題が「航続距離不足」から「充電時間の質」へ移りつつあるのではないかという話を書いた。

 実際にトヨタbZ4Xツーリングで東京から長野県佐久市、さらに奥三河を経由して静岡から帰京する旅をしてみた結果、少なくとも長距離移動そのものについては、もはや大きな問題を感じなかった。一方で、浜松サービスエリアのようなレアで快適な充電環境と、たくさんある山間部の充電スポットとの間には大きな体験価値の差があり、同じ30分でも過ごし方はまるで違うという現実も見えてきた。

 では、その差はなぜ生まれるのだろうか。そして、どうすれば解消できるのだろうか。

 まず最初に言っておきたいのは、「EVにはもう何も問題ない」という論調に対する違和感である。実際、EV好きな人の書き込みで頻繁に眼にする。

 もちろん、それぞれの個人的な成功体験を語ること自体は悪いことではない。そのn=1のケースでは、自宅で充電できて、目的地にも充電設備があり、高速道路にも十分な急速充電器があり、混雑にも遭遇しなかった。そういう条件の下で快適な旅行ができた。それは1つの事実だろう。しかし問題として悪質なのは、その1度の体験をそのまま普遍化して一般論へ拡張してしまうことである。

南信州で利用した充電スポットは、駐車場内に急速充電器が設置されているだけの簡素な作りで、休憩するための居場所やトイレなどの付帯設備はなかった。一方で、年間の利用者数が少なく副収入の見込めづらい立地と考えれば、事業者側の考え方も理解できる

 例えば筆者が今回体験した南信州の充電スポットは、決して特殊な例ではない。

 むしろ地方へ行けば行くほど、本業のかたわらで、行政などからの依頼に応えるために、消極的に設置された充電器は珍しくない。スキー場、道の駅、観光施設、温泉施設、公共駐車場。そうした場所に設置された充電器の多くは、そもそも充電事業を本業としていない。本業があり、その敷地の一角に充電器が置かれているだけである。しかもこれまでの実績から言って、もはや利益は全く期待されていない。

 そのような場所に、浜松サービスエリア並みの快適性を期待するのは難しい。なぜなら快適性とは自然発生するものではなく、投資によって作られるものだからだ。

 ところが不思議なことに、EVを巡る議論では、この投資の話が極端に少ない。例えば「急速充電器をもっと増やすべきだ」という意見はよく聞く。しかし増やした先の話になると急に曖昧になる。誰が設置費用を負担するのか。誰が維持費を負担するのか。故障対応はどうするのか。利用率が低い地域ではどう採算を取るのか。そうした、自らに降りかかるかも知れない費用負担の話になると途端に声が小さくなる。しかし現実には、インフラは勝手に生えてこない。

 急速充電器は設置するだけでも費用がかかるし、維持費もかかる。通信費も保守費も必要だ。さらに近年求められている高出力化は別の問題を生む。

 例えば50kW級までと、それ以上では電力契約の基本料金そのものが大きく変わる。設備側から見れば基本料金もランニングコストも大きく上昇する。にも関わらず利用者が少なければ、そのコストは回収できない。

 ここでさらに厄介なのは、投資の恩恵を受ける人と受けない人が存在することだ。

150kW級の高速型充電器もSAなどを中心に普及しつつある。だが、車両側の受電能力に依存するため、すべてのEVユーザーがその恩恵を享受できるわけでもなく、課金制度設計の公平性に不安がある

 例えば150kW級充電器を整備したとしても、すべてのEVがその恩恵を受けられるわけではない。車種によって受電性能は大きく異なる。高出力充電に対応した車両なら大きな恩恵が受けられるが、50kW級までしか受けられない車両にとっては、高額なインフラ投資の恩恵で得られる利益は限定的である。せいぜいが前に充電中のクルマがいても待機時間が短くなる程度だ。コスト高の原因となる高出力はどうせ使えないのだ。

 少し雑な言い方になるが、もし受電能力による料金差がないとしたら、高出力充電器の恩恵を受ける高価格帯のEVユーザーのために、そうではない利用者まで負担を分かち合う構造だとも言える。受益者と負担者が一致していないのである。所得再分配の制度設計として筋が悪すぎる。

 さらに言えば、自宅充電の有無でも状況は大きく変わる。筆者は以前から繰り返し書いているが、自宅充電ができない環境でEVを運用するのは、現時点ではかなり難しい。

 もちろん例外はある。徒歩数分圏内に普通充電器があり、事実上専有利用できるような環境であれば成立するだろう。しかしそれは例外であって標準解ではない。自宅充電ができる人にとってEVは非常に便利である。

 しかし自宅充電ができない人にとっては、その利便性の多くが失われる。にもかかわらず、両者はしばしば同じ「EVユーザー」として一括りに語られてしまう。つまりEVという乗り物は、思われている以上に条件依存性が高いのである。そして一度条件を外れると、メリットが大幅に失われたり皆無になったりする。

 だからこそ筆者は、「もう問題ない」という言葉に強い違和感を覚える。

 問題がないのではない。自分の条件下で問題が発生しなかっただけである。それは決して同じ意味ではない。筆者はこういう我田引水な意見を「靴のサイズは26cmこそが最高ですと言う主張と変わらない」と批判してきた。

 加えてもっと重要なのは、問題がないことにされてしまうと、改善のための投資そのものが止まることである。前回、筆者は「実は楽観論の方が残されたEV課題の解決には有害ではないか」と書いた。その考えは今も変わらない。

 なぜなら、問題は解決したと言われた瞬間に、投資の必要性も消えてしまうからだ。充電事業の採算化の道のりは現状では全く見えないが、誰だって投資より回収をしたい。少なくとも投資はしたくない。自治体もそうだ。企業もそうだ。充電事業者もそうだ。自動車メーカーもそうだ。だから「問題はない」という声が大きくなればなるほど、新たな投資は難しくなる。

 しかし現実には、まだ改善すべき点が大量に残されている。例えば充電器の数。例えば高出力化。例えば待機スペース。例えば屋根。例えばトイレ。例えば飲食施設。例えば安全性。そして人が30分を快適に過ごせる居場所そのもの。それらはすべてコストである。そしてそのコストから逃げることはできない。

 国が払うのか。自治体が払うのか。充電事業者が払うのか。自動車メーカーが払うのか。利用者が払うのか。その答えは一つではないだろう。おそらく現実には複数の主体が負担することになる。というかそうしない限り存続できない。

電気自動車はカーボンニュートラル社会実現への貢献が大きいとして、充電器の設置も含め税金を原資とする補助金が投入されている。一方で、どこまで、いつまで税金でサポートするべきなのか、税の公平性を考えれば国民的な議論が必要だろう

 しかし一つだけ確実に言えることがある。それは「誰も払わない」という選択肢だけは存在しないということだ。当然ながら受益者であるEVユーザーもだ。少なくとも「もう何も問題ない」と主張するのであれば、その快適さを維持するためのコスト負担についても自ら負う覚悟がいるだろう。

 快適な30分には値段がある。EVの未来を語るなら、その値段を誰が支払うのかという議論から逃げてはならない。700km級EVの登場によって、クルマそのものの性能問題は大きく改善された。しかし本当に重要なのはその先である。EVの課題は航続距離ではなくなった。充電時間ですらなくなりつつある。残された課題は、その30分を人間らしく過ごせる環境をどう作るのか。そしてそのコストを社会としてどう負担するのかである。

 EVの課題を解決したいのであれば、まず問題が残っていることを認めるべきだろう。問題がないと言い続ける限り、投資も改善も生まれない。勝利宣言は気持ちが良い。しかしそれは問題解決とは別の行為である。

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池田直渡(いけだ なおと)

ライタープロフィール

池田直渡(いけだ なおと)

1965年神奈川県生まれ。1988年企画室ネコ(現ネコ・パブリッシング)入社。取次営業、自動車雑誌(『カー・マガジン』『オートメンテナンス』『オートカー・ジャパン』)の編集、イベント事業などを担当。2006年に退社後スパイス コミニケーションズでビジネスニュースサイト「PRONWEB Watch」編集長に就任。2008年に退社。以後、編集プロダクション、グラニテを設立し、クルマのメカニズムと開発思想や社会情勢の結びつきに着目して執筆活動を行う。

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1965年神奈川県生まれ。1988年企画室ネコ(現ネコ・パブリッシング)入社。取次営業、自動車雑誌(『カー・マガジン』『オートメンテナンス』『オートカー・ジャパン』)の編集、イベント事業などを担当。2006年に退社後スパイス コミニケーションズでビジネスニュースサイト「PRONWEB Watch」編集長に就任。2008年に退社。以後、編集プロダクション、グラニテを設立し、クルマのメカニズムと開発思想や社会情勢の結びつきに着目して執筆活動を行う。

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