カーライフ
更新日:2025.08.22 / 掲載日:2025.08.22

自分のものになるクルマとならないクルマ【池田直渡の5分でわかるクルマ経済】

文●池田直渡 写真●アストンマーティン、日産、MINI

 「もし金額無制限で世界中のクルマの中で何か1台もらえるとしたら、何が欲しい?」

 クルマ好きの定番の話題だ。多分誰もが一度くらいそんな話をしたことがあるはずだ。ちょっと恥ずかしいが、筆者の場合それはアストンマーティンDB4GTザガートである。オリジナルモデルは1960年から1963年に19台が生産された。後の1991年から数度に渡りコンティニュエーションモデルという名前で、アストンマーティンにより、当時のシャーシを使って公式に数台が復刻再生産されている。

 このクルマがちょっと特別にスゴいと思うのは、生産されたすべてのクルマが現存している。まあ同じシャシー番号で再生産されたクルマなどもあり少し怪しいところもあるのだが、それだってアストンがただでやってくれるわけじゃない。要するに、長年に渡り富裕なエンスージアストたちが札束の威力にモノを言わせ、精魂込めて保存に勤めてきたから、1台も欠けることなく現存しているのだ。

 元々がフェラーリ250GTとサーキットで戦うために開発されたクルマだけに、レースに出場してクラッシュしたりした個体も少なくない数あったはずだが、それらは、莫大なお金と時間をかけて再生されて今日に至っているわけである。

2019年、ザガート創立100周年を記念してわずか19台だけ復刻されたDB4 GT Zagato コンティニュエーション

 さて、IFの話である。会ったこともない遠縁の親戚から突然遺産相続の話がきて、筆者がDB4GTザガートを引き継いだと仮にしよう。それは嬉しいことだろうか?

 筆者はこの途方もない文化遺産を受領したその瞬間からもうDB4GTザガートの管財人だ。世界中の多くのファンとこれまで欠落なくクルマを維持して来た先達の期待する状態にこのクルマを保たなくてはならない。当然怖くてそこいらには乗って行けない。スーパーはおろか、デパートの駐車場だって停められない。

 いや自宅のガレージにあってなお、おそらくは気が気ではない。当然、防火性の高いコンクリート建築のガレージで、かつコンディションを保てる空調付きの保管環境を用意し、定期的に私財を投じて、誰に恥じることもない最良のメインテナンスを行い。この時代のオーナーとして社会的要請に応えるために、相応しいイベントともなれば馳せ参じて、万が一クラッシュしたとしてもそれを復帰させなくてはならない。

 要するにこういう文化財級のクルマを所有するということは、法的には自分のものになったとしても、実質的にはそれは社会から貴重なクルマを預かり、お金をかけて面倒を見て、次の世代に受け渡していく管理人に過ぎない。

 それは何もDB4GTザガートだけの話ではない。DB4GTザガートより、もう少し手にいれる確率の高いクルマだってそういうクルマはある。2014年には富山県で、トヨタ2000GTが倒れてきたブナの大木に押しつぶされて全損になった事件があった。オーナーは2億円と見積もられた修理費が払えず、無念にも大破したクルマを自宅ガレージで保管しているというニュースが流れた。

 2000GTは十分ハードルが高いだろうというのであれば、他にも例がある。日産が32GT-RをEVにコンバージョンした時は「貴重なクルマになんということをする」という批判が吹き荒れた。自分の所有物を廃車にして鉄屑として処理しようが、EVにコンバートしようが、資本主義の原則に照らせば本来自由なはずだが、社会はそこに干渉してくるし、そうでなくても、自分自身がその結果をおそらくは軽視できない。自責の念に苛まれる。

日産が30年後の未来のエンジニアにもGT-Rの走り味を体験してもらうべくスタートしたEV化企画。エンジン仕様に戻せる形でのコンバージョンが行われたにも関わらず、一部からは批判する声が上がった。

 夢の1台に憧れるのはクルマ好きなら誰にでもあるのだが、その現実は厳しい。もちろんどこかでスパッと文化財的なクルマとそうじゃないクルマに分かれているわけではなくて、グラデーションになっている。例えば走行距離が少なく、綺麗に保たれたオリジナルコンディションのNAロードスターとかだって、すでに多少はその領域に引っかかっている。

 結局、特にグラデーションの濃い領域のクルマを手にいれるということは、自腹で文化財の保護活動をするということであって、本当の意味で自分のものになるわけではない。どちらかと言えば歴代オーナーリストに名を連ねる意味の方が多いかも知れない。

 つまりスゴいクルマを手にいれることが本当に幸せなのか不幸なのかは実のところよくわからない。文化財保護活動に貢献すること自体が目的ならばともかく、常に自分のクルマの持ち方、使い方に社会が容喙してくるプレッシャーと戦うのは、気力の消耗戦そのものだ。

 筆者はネコ・パブリッシングという会社で、そういう文化財保護に身を捧げる人たちのカーライフをたくさん見てきた。生半可な覚悟でできることではない。そうして、世の中には「自分のものになるクルマとならないクルマ」があることを知ったのである。

 例えばMG-AやMG-B、スプリジェット(オースティン・ヒーレースプライトとMGミジェット)辺りは、多分まだ新品のフレームが手に入る。もちろんそれ以外のパーツもだ。あるいはケータハム・スーパーセブンもロータスツインカム搭載車などの一部モデルを除けば、文化遺産にはならない。

世界的に生産台数の多いクルマであれば、ヒストリックモデルでも気軽に付き合うことができる

 古い大衆車とかもこのジャンルで、ミニやフォルクスワーゲンType1、シトロエン2CV、フィアットのヌォーバチンクエチェントや、パンダなんかも所有してどう乗ろうが誰にも口を挟まれない。特にケータハムは現行生産車だ。そういう意味ではお金をさえ払えば気兼ねなく自分のモノになる。やりたければEVだろうがゴム動力だろうが、あるいは事故で全損にしようが、誰にも干渉されない。

 別にこの記事で「ほどほど」の重要性を説こうとまでは思わないけれど、筆者の個人的感想として言わせてもらえば、実は自動車趣味というのはそのくらいが、一番幸せなのではないだろうか。自動車趣味の世界はとかくヒエラルキーの話になりがちである。より希少で高価なモデルを所有している人がエラい。だから相互にマウントを取り合う。

 フェラーリのヒストリックモデルが集まるようなイベントに現行のフェラーリに乗ってでかけようものなら「向こうの砂利の駐車場に停めてください」と言われたりすることもある。そこではいつもの「俺様のフェラーリ」の神通力が通用しない。

 オーナーは「ぐぬぬ……」となるかも知れないけれど、それはそれで実は幸せなんだと筆者は思うのだ。そのフェラーリをサーキットで乗り倒して消耗させようが、多少壊そうが自分の懐だけの話で済む。自分のクルマについての完全な決定権が自分の手中にあるということだ。軽んじて見られたかにも思える砂利の駐車場はその象徴でもある。

 自分自身が自分の趣味のクルマの一切合切の責任を持てる中で、楽しめる自動車趣味という見方に切り替えると、あれが欲しいこれが欲しいの飢餓感から解放される。ちょうど良い幸せについて考えてみるのは意味のあることだと思う。なにひとつ欲しくない無欲な人生はつまらないが、物欲に永遠に駆り立てられる人生も辛いではないか。

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池田直渡(いけだ なおと)

ライタープロフィール

池田直渡(いけだ なおと)

1965年神奈川県生まれ。1988年企画室ネコ(現ネコ・パブリッシング)入社。取次営業、自動車雑誌(『カー・マガジン』『オートメンテナンス』『オートカー・ジャパン』)の編集、イベント事業などを担当。2006年に退社後スパイス コミニケーションズでビジネスニュースサイト「PRONWEB Watch」編集長に就任。2008年に退社。以後、編集プロダクション、グラニテを設立し、クルマのメカニズムと開発思想や社会情勢の結びつきに着目して執筆活動を行う。

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1965年神奈川県生まれ。1988年企画室ネコ(現ネコ・パブリッシング)入社。取次営業、自動車雑誌(『カー・マガジン』『オートメンテナンス』『オートカー・ジャパン』)の編集、イベント事業などを担当。2006年に退社後スパイス コミニケーションズでビジネスニュースサイト「PRONWEB Watch」編集長に就任。2008年に退社。以後、編集プロダクション、グラニテを設立し、クルマのメカニズムと開発思想や社会情勢の結びつきに着目して執筆活動を行う。

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