車の歴史
更新日:2018.11.14 / 掲載日:2018.08.27
名車探訪 DATSUN サニー(初代)
ハイウェイ時代の 新たなる国民車の誕生
2ドアセダン
1966年4月、この2ドアセダンとバンでスタートしたサニー。ロングノーズでテールが短い。リヤサイドウインドウは前ヒンジで後部が外側に開いた。ステアリングはブルーバードにも採用されたリサーキュレーティングボール式を採用し、最小回転半径は4.0mを誇った。
●主要諸元 2ドアセダンデラックス(1966年式)○全長×全幅×全高:3820mm×1445mm×1345mm ○ホイールベース:2280mm ○トレッド(前/後):1190mm/1180mm ○車両重量:645kg ○乗車定員:5名 ○エンジン(A10型):水冷直列4気筒OHV988cc ○最高出力:56PS/6000rpm ○最大トルク:7.7kg・m/3600rpm ○燃料タンク容量:35L ○最高速度:135km/h ○0-400m加速:20.6秒 ○最小回転半径:4.0m ○トランスミッション:前進3段、後進1段 ○サスペンション(前/後):ウィッシュボーン式独立懸架/半楕円リーフリジッド ○タイヤ:5.50-12 4P ○価格(東京地区):46.0万円
軽自動車並みの価格で買えた格上の走りと装備
新設計のモノコックボディは非常に軽く、マキシマムスピードは135km/h。このクラス、この価格でこの高速性能は少なく、パブリカやファミリアなど排気量800ccのライバル達を尻目に、発売5か月で販売台数3万台をクリアする大ヒットを記録した。
ライトバンを隠れ蓑にようやく動き出した新たな大衆小型車開発
ビジネスマンなら誰でも、市場にタイムリーに商品を投入することの難しさを知っているだろう。どんなに素晴らしい企画でも、技術がなければ作れないし、どんなに技術が優れていても、トップの理解がなければ、それを世に出すことはできない。
いつの時代のどんな商品も、開発途上に次々と現れるそうした関門を乗り越えて世に出た。1966年に登場して、日本のマイカー時代の起爆剤となった日産サニーも例外ではない。しかも、技術の日産と呼ばれるにふさわしい実力を持つ開発者たちに立ちふさがった敵は、社内にいたのだ。
1960年代の日本は、高度経済成長の只中。とはいえその前半にあっては、庶民にとってマイカーはまだ夢だ。1955年のスズライトを皮切りに軽自動車が続々と登場し、1958年にはスバル360も誕生していたが、それに手が届くサラリーマンは少数派だった。
その一方で、1961年に登場したパブリカや1964年のファミリアなど、800cc~1L級の大衆向け小型乗用車への挑戦は、各社で始まっていた。日産でも、1962年には同クラスエンジンの試作が進んでいた。ところが、そのエンジンを積む乗用車の企画に、当時の日産の社長は難色を示したのだ。
彼は労働争議をきっかけに、銀行から送り込まれた人物だった。セドリックの後席に乗ることはあっても、自身でドライブを楽しむ価値観は持ち合わせていない。マイカー時代の到来を説き、大衆小型車の必要性を訴える部下に、彼は「お金のない大衆はブルーバードの中古車に乗ればいい」と言い放ち、既存商品との共食いになりかねないラインナップの増加にノーの判断を下したのだった。
しかし、若き開発陣は諦めなかった。乗用車は庶民にはまだ手が届かなくとも、街の商店の配送車兼マイカーとして、商用ライトバンは普及しつつあった。先行するファミリアも最初はライトバンから発売されて好評を得ていた。
そこで彼らは、まず小型ライトバンの企画を1964年に通し、そのバリエーションとして、乗用車の開発を水面下で続けた。そうして、頑固で鳴る社長についにOKと言わせたのが、コードネームA260X。初代サニーの企画だった。
開発コンセプトは「サラリーマンでも買えるクルマ」。具体的には、年収100万円程度の勤め人がターゲットだ。年齢的には40代で課長クラスといったところだろう。厳しくコストを管理して最終的に実現させた価格は、スタンダードで41万円から。その狙いは、まさに大当たりとなった。
初代サニー変遷
●1965年(昭和40年)
5月 正規試作車が完成。
●1966年(昭和41年)
1月 元旦の広告で車名公募キャンペーンをスタート。
2月 東京・千駄ヶ谷の東京体育館でサニーの車名発表会が開催される。発表会には日産創業者の鮎川義介も立ち会う。
4月 B10型サニー販売開始。発売時のグレードは2ドアセダンが「スタンダード」(41万円)と「DX」(46万円)。さらにバンに2グレードの計4車種。ミッションは3速コラムMTのみ。
10月 グレーとブラウンのボディカラー追加、全5色に。
12月 月間国内登録1万台を達成。
●1967年(昭和42年)
4月 4ドアセダン追加。4速MT(フロアシフト)の「スポーツ」、3速フルオートマチック車(コラム)を設定。
7月 マイナーチェンジ。フロントグリルデザイン変更、安全パッド入りダッシュパネルの採用など。
10月 豪州バサースト500マイルレースに出場、ワンツーフィニッシュを飾る。
●1968年(昭和43年)
2月 ファストバックスタイルの2ドアクーペ(KB10型)を追加。
10月 マイナーチェンジ。フロントグリル、テールランプのデザイン変更など。
●1969年(昭和44年)
8月 一部改良。および上級グレードの「GL」を設定。
●1970年(昭和45年)
1月 フルモデルチェンジ。2代目に移行。
3人乗りのリヤシート。クラストップレベルの広さ。
サニーのために新設計された直列4気筒ハイカムシャフトのOHV「A10型」エンジン。セダン用は56PSだが、クーペ用はダブルエグゾーストで60PSにパワーアップされた。
トランクリッドを開けたままで固定できるリジッドストッパーは実用新案申請もされた。
ワイパースイッチの右下にあるのはウォッシャー液の手動ポンプ。インパネ上部は太陽光の反射を考え、黒いソフトパッドで覆われた。コラムのシフトは3段フルシンクロ。
ドアの内側にもソフトパッドを使用。
豪華な「DELUXE」のエンブレム。
ティザー広告の走りとも言えた車名公募キャンペーン。まず排気量が知らされ、その後徐々にクルマの概要が公開された。なお公募の商品はサニーの新車だった。
日産のサファリラリー挑戦は1963年、ブルーバードで始まる。1969年の第17回のレースには、510ブルとともにサニー1000も参戦。残念ながらリタイヤとなったためあまり知られていない。
カローラと競い合うように洗練度を高めたサニー
後発のカローラはサニーより価格は高かったが、少し上の性能や若々しさなど、ユーザーの優越感をあおって成功する。大衆車といえども非日常の魅力も必要。サニーも負けじと積極的に改良を実施。1968年には流麗なファストバッククーペが追加された。
強力なライバルの出現で、装備の充実や車種追加を推し進めたサニー
当初難色を示した社長も、いざGOを出すと全面的に支援してくれた。1966年の元旦には、発売予定の大衆新型車として、実車を景品に車名を募集する広告を大々的に掲載。じつに848万3000通あまりの応募を集めて話題を呼ぶ。それは、マイカー時代への庶民の熱い期待を映し出す数字だった。
1966年4月の発売から5か月で3万台を販売。その後も順調に台数を伸ばし、同年末には月販1万台を達成する。記録的なスタートダッシュに、社長も「オレが間違っていた。やっておいてよかったな」と開発陣に頭を下げたという。
しかし、その成功に酔いしれる時間は、サニーにはなかった。わずか7か月後の1966年11月に、トヨタが強力なライバル、カローラを送り込んできたのだ。
軽快に回る1LのA10型エンジンと、スタンダードで625kgという軽量設計は技術の日産の名に恥じず、ハンドリングも上々で、専門家筋からの評価は高かったサニーだが、素人目にはカローラの方が魅力がわかりやすかった。
それもそのはず、カローラを開発したトヨタの長谷川龍雄主査は、その前に開発したパブリカが質素過ぎて売れなかった反省から、わかりやすい魅力をカローラに盛り込むことに注力していたのだ。
モール類を極力減らしたクリーンなデザインのサニーに対して、カローラはメッキグリルやモールで、豪華さを前面に出した。サニーが当時の上級セダンの常識だったコラムシフトなら、カローラは当時トラック的と見なされていたフロアシフトをあえて選び、スポーツカーのメカと謳う。
そして極め付きが、サニーが1Lで開発中という情報を得て、急きょ排気量を拡大した1.1Lエンジンだ。カローラはそれを「プラス100ccの余裕」と宣伝して、サニーよりひとクラス上のクルマを人々にイメージさせたのだ。
もちろんサニーも黙ってはいない。登場翌年には4ドアセダンとともに、スポーツデラックスを名乗るフロアシフト車やAT車も投入。1968年にはクーペも発売して対抗する。一方、カローラもクーペのスプリンターやATの追加など、真正面から応戦した。
かつてのBC(ブルーバードVSコロナ)戦争になぞらえて、CS戦争と呼ばれたその競い合いは、その後も延々と続いた。1970年に登場した2代目サニーが1.2Lを中心に据えると、次のカローラは1.4Lを出した。サニーが対抗してエクセレントシリーズを加えると、カローラはセリカから譲り受けたDOHC1.6Lまで詰め込んで、覇を競ったのだ。
2ドアクーペ
曲面ガラスが多用されたクーペ。セダンとは別もののあか抜けたプロポーションで、カローラに押され気味だった販売も再点火。「デラックス」のモノグレードでスタートしたが、後にセダンと同様に豪華使用のGL(グランド・ラグジュアリー)が追加される。A10型エンジンは圧縮比の変更などで60PSに強化。
●主要諸元 2ドアクーペ(1968年式)○全長×全幅×全高:3770mm×1445mm×1310mm ○ホイールベース:2280mm ○トレッド(前/後):1190mm/1180mm ○車両重量:675kg ○乗車定員:5名 ○エンジン(A10型):水冷直列4気筒OHV988cc ○最高出力:60PS/6000rpm ○最大トルク:8.2kg・m/4000rpm ○燃料タンク容量:36L ○最高速度:140km/h ○0-400m加速:18.4秒 ○最小回転半径:4.0m ○トランスミッション:前進4段、後進1段 ○サスペンション(前/後):ウィッシュボーン式独立懸架/半楕円リーフリジッド ○タイヤ:5.50-12 4PR ○価格(東京地区):50.0万円
機能優先のセダンと違いクーペはスポーティと上級を演出したインパネを採用。丸型独立の3連メーターは中央が速度計、左が水温計/燃料計のコンビメーター、右の回転計はオプション。速度計内にはトリップメーターも
オプションで選べたグレンチェックのシート。
クーペもリヤシートは3人掛け。
リヤシートは一体で背もたれの前倒しが可能。また助手席のシートバックも折り畳めば最大荷室長は2405ミリに。カタログでは「マジックスペース」と謳われた。
カローラが先行して若々しい印象を植え付けた4速フロアシフト(フルシンクロ)を採用したクーペ。
クーペも3速フルオートマチックをラインナップ。セレクターレバーの奥にコンソールが付いている。
クーペはハッチゲートではなく、開閉するのは荷室部分だけ。キャビンと荷室に仕切りはなく、ドライブ中も荷物が取り出せた。
5人乗りでも荷室スペースは奥行き780mm×高さ610mmを確保。
サニークーペの成功で、カローラもその2か月後にクーペの「カローラスプリンター」を投入した。
4ドアセダン
2ドアセダン発売から1年後に追加された4ドアセダン。4速フロアシフトと3速ATも設定された。
なおカローラもサニー4ドア登場の1か月後に4ドアセダンやトヨグライドを追加している。
バン
もともとサニーは安定して売れ行きが見込めるバンありきで開発されている。
バンのスタンダードは39万円、デラックスは43万円と、セダンより少し安く買えた。
昭和を駆け抜けた名車サニー
カローラとサニーその切磋琢磨は日本車躍進の縮図
初代から激しい販売合戦を繰り広げたサニーとカローラは、日本にマイカーを急速に普及させた。さらに代を重ねると、戦いのリングを世界の市場にまで広げて、多くの派生モデルも生んでいく。
商品企画面では、サニーは3代目のクーペがハッチゲートを持つファストバックスタイルで人気を呼ぶと、3代目カローラはリフトバックと呼ぶシューティングブレークスタイルで海外でも好評を得るなど、新しい車型を創出。4代目サニーではスタイリッシュなステーションワゴンのカリフォルニアが、すっかり豊かになった日本人に遊び心を教えてくれた。
サニーは5代目でパルサーとプラットフォームを共用するFF車にチェンジ。1.5Lクラス初のターボを積むルプリも誕生させる。6代目ではスタイリッシュなクーペのRZ-1や2BOXハッチバックの306が登場し、シリーズ初のDOHC車や4WD車も加わるなど、ボディタイプもエンジンも、膨大なバリエーションへと成長していくのだ。
モータースポーツでも、空力に優れる2代目サニーがA型エンジンのOHVながら優れた素性を活かし、ツーリングカーレースで大活躍した。対して、DOHCエンジンを積んだ2代目カローラのレビンと兄弟車のスプリンタートレノが国内外のラリーで勝利を重ねるなど、それぞれの個性を活かした戦いぶりで名を轟かせた。
サニーのために誕生し、軽快な吹き上がりと信頼性、メンテナンス性の高さから、名機と呼ばれたA型エンジンは、モータースポーツだけでなく、新興国市場での日産車の躍進にも寄与した。1970年代末には年間100万台規模で量産され、海外の生産工場では、じつに2008年まで、42年にわたって造り続けられたのだ。
海外市場ではセントラやヴァーサ、ツルなど、現地に合わせた車名で輸出・現地生産されたサニーは、2000年代に入ると日本国内では勢いを失い、1998年に登場した9代目を最後にその名は使われなくなった。事実上の後継車となるラティオも、ライバルのカローラが今なお健闘しているのに対して、ついに命脈尽きてしまった。
それでも、サニーが日本のモータリゼーション史に記した足跡は、永遠に残るだろう。1966年という年にサニーとカローラが登場し、好敵手として競い合うことがなかったなら、日本車の技術も、また世界の市場での日本車の地位も、今とはまったく違っていたはず。史上初の「サラリーマンに買えるクルマ」は、間違いなく、今日の日本車の礎なのである。
マイカー元年 「昭和41年」 という時代
今日の経済の世界では、新興国の一人当たりGDPが3000ドルに達するとモータリゼーションが始まると言われている。サニーが登場した昭和41年=1966年の日本の一人当たりGDPは約1000ドル。1ドル360円だった当時の為替レートを換算すると、今日の3000ドルに該当する。
1961年に割賦販売法が制定され、自動車ローンが普及し始めたことも、高額商品であるマイカーを身近にしていた。明日は確実に今日より豊かになれる、高度経済成長のただ中で懸命に働く日本人が、叶う夢として自動車を見る環境が整ったのがこの年だったのだ。
高速道路建設ラッシュ
1962年、京橋~芝浦間のわずか4.2kmで始まった首都高は、モータリゼーションの進行とともにその道路網を着々と広げていく。写真は1966年の一ツ橋インターチェンジ付近。完成途中の路線は池袋方面に向かう5号線。ちなみに利用料金は150円となっていた。
グランプリレース熱狂時代
1960年代になると、モータースポーツ人気の高まりに呼応して、次々に常設サーキットが完成。1962年に鈴鹿、1965年に船橋、そして1966年には富士スピードウェイ(写真)がオープンした。当時の人気は市販車が競うツーリングカーレース。もちろんサニーやカローラも参戦した。
ビートルズ来日
「ウルトラQ」が人気となったこの年、ビートルズが来日し、6月30日から3日間、日本武道館で公演。入場料は1500~2100円と法外なものではなかったが、混乱防止のため往復はがきによる抽選販売だった。
高度経済成長と オートローン
アメリカでは1920年代から始まっていた自動車ローン。日本では1960年頃プリンス自動車が始めたと言われる。1966年になると銀行も積極的に自動車ローンを推進。写真は「勧銀モーターローン」の雑誌広告。
自動車と都電「主役の交代」
全盛期には41系統が走り、一日の利用者数が170万人を誇った都電も、1960年代になると自動車が急増、道路の邪魔者へと変わってきてしまう。さらに相次ぐ地下鉄の開通もあり、都電は一気に姿を消していった。写真は1966年の神田橋付近の様子。
歴代モデルプレイバック、サニーの40年
2nd(B110型・1970-1973年)
排気量で上を行くカローラに対抗し、1.2LのA12型エンジンを搭載。さらに1971年にはSOHCのL14型1.4Lを積む上級志向のエクセレントシリーズも追加された。カローラも大型化/高級化がすすみ、他社も巻き込み大衆車の高品質競争が激化。
3rd(B210型・1973-1977年)
セダンは当時流行した丸みのあるデザインを採用。ハッチバックとなったクーペは、ケンメリスカイラインにも通じるシャープなデザイン。とくにエクセレントのクーペは丸型3連テールランプを採用、噴射口のような形状から「ロケットサニー」と呼ばれた。
4th(B310型・1977-1981年)
直線基調のデザインに回帰。エクセレントシリーズはスタンザに引き継がれるかたちでなくなり、エンジンは1.2L/1.3L/1.5LのOHV(A型)だけとなった。1979年にはステーションワゴンの「カリフォルニア」を追加、人気モデルとなる。サニー最後のFRモデルで、レースでも活躍した。
5th(B11型・1981-1985年)
前輪駆動に変わり、エンジンもSOHCのE型に一新。正式名称もダットサンサニーから日産サニーへ変わる。流行の3ドアハッチバックモデルもラインナップ。1982年に1.5Lターボ車や1.7Lのディーゼル車が追加された。
6th(B12型・1985-1990年)
直線的でシンプルなデザインを採用、トラッド・サニーの愛称で人気を博す。サニー初のDOHCモデルも追加に。カローラレビンに対抗するように、クーペは「RZ-1」と名付けられ、鉄仮面スカイライン風のグリルが特徴だった。
7th(B13型・1990-1994年)
ガソリンエンジンは全てDOHCとなる。クーペ(3ドア)はNXクーペとしてサニーから独立、実質4ドアセダンのみのラインナップに。
8th(B14型・1994-1998年)
ホイールベースを延長し居住性を向上。SRSエアバッグの全車装備など安全装備も充実。スポーツモデルはルキノとして分離された。
9th(B15型・1998-2004年)
国内販売専用モデルとなり、スポーティな派生モデルもなくなる。ハイパワーの1.6L DOHCや2.2Lディーゼルなどエンジンは豊富に選べた。
もうひとつのサニー史
初代サニートラック(1967年)
キャブオーバーよりも早くから発売されていたフロントエンジン後輪駆動のピックアップ。エンジンはA10型が搭載された。
2代目サニートラック(1971年)
改良を加えられながら海外では2008年(国内販売は1994年で終了)まで売られた。改造車のベースとしてマニアの間では今なお人気が高い。
サニーキャブ(1969年)
エンジンをはじめB10型サニーのコンポーネントを使ったキャブオーバー車。写真のバンのほか、トラック、バネットの源流となる8人乗りのコーチもあった。
提供元:月刊自家用車