heartとカクテル short story　　「S660とオイルと、ちょっと気取った午後。」｜車検・点検・修理のグーネットピット

あの日、heartは
いつもより少しだけ、髪型に気を使って出勤していた。

理由はない。
理由がないのが、男ってやつだ。

ピットの片隅。
S660が滑り込むように入ってきた。

グレーメタリックのボディに、午後の陽が差し込む。

「今日は、ミッションとエンジン。両方いくよ。」

誰に話してるわけでもなく、そう呟いた。
オイルを抜く音だけが、時間を刻んでいる。


WAKO’Sの缶が、工具台に並ぶ。
青と白。そこに浮かぶ「PRO-S」というロゴ。

「女の子の香水より、こっちの匂いの方が落ち着くんだ。」

心のどこかで、
「このクルマ、たぶん今日からまた速くなる」
そんな自信が生まれる。

ボルトを締めるトルクレンチの「カチ」という音。
この仕事を始めてから、いちばん好きな音かもしれない。

「オレさ、クルマのことになると、
　ちょっとだけ真面目になっちゃうんだよね。」

またひとつ、言わなくてもいい台詞を口にして
heartはピットを出た。

S660が静かにエンジンをかける。
その音が、まるで返事のようだった。

ツナギの胸ポケットから、油で少しだけ角が丸くなったペンを取り出す。

「次回交換：82,500m または・・・」

そう書き込むと、静かにダッシュボードサイドに貼り付けた。

その動きは、まるで
何かを約束するような、
別れ際の手のひらの温もりのような。

「恋よりも、
　オイル交換のほうが、タイミングがむずかしい。」



――午後1時、交差点の向こうで、
heartは振り返らなかった。

それが彼のやり方だった。

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