車の歴史
更新日:2021.03.02 / 掲載日:2021.02.27

暁のホンダ史 ~始動編~

四輪車生産を目指した HONDAのチャレンジ

本田少年がまだ小学校の低学年だった頃、村に一台の自動車がやってきた。機械いじりが大好きだった少年の目は釘付けとなり、いつかは自動車を造ってみたい強い憧れを持ったという。自動車修理工場の丁稚奉公に始まり、二輪車用エンジンからオートバイ生産、そして念願の自動車事業の開始まで、ホンダ創世記の製品とともに振り返っていこう。

第5回日本自動車競争に出場 「カーチス号」(1924年)

アート商会時代、本田は主人の榊原兄弟を手伝いレーシングカー「カーチス号」を製作。ライディングメカニックとして多摩川サーキットで行なわれた第5回日本自動車競争に出場、見事優勝する。搭載したカーチス航空機用8.2LのV8エンジンは1400回転で90PSを発生した。

始動:1951年 本田技術研究所の設立、バイク用エンジンの生産。アート商会で自動車構造を学ぶ



 機械いじりには、ある種の才能が存在する。手先が器用といったレベルを超えた、生まれながらのメカニックという人が確実にいるのだ。本田宗一郎という人は、まさにそうだった。

 彼は1906(明治39)年に、現在の浜松市から天竜川を遡った山村で生まれた。子供のころにはまだ村に自動車はなく、たまに自動車が来ると、排気ガスの匂いをかぎたくて後を追っていたという。

 そんな宗一郎が、自転車販売業を営む父が購読していた業界誌で東京の自動車整備工場、アート商会の広告と出逢ったのは15歳の時。彼は自ら丁稚奉公を志願する手紙を書き、採用される。世界のクルマを扱う現場で才能を見出された宗一郎は、従業員の中でも唯一、アート商会の支店を名乗ることを許され、1928年に21歳の若さで浜松市内に工場を構えた。

 通常の自動車整備・修理だけでなく、宗一郎自身の手になる消防車やダンプカーの架装なども手掛けたアート商会浜松支店の経営は順調で、1936年には自作のレーシングカー「ハママツ号」で東京・多摩川でのレースにも参戦している。

 ところが、やがて彼は修理・整備業に飽き足らなくなり、ピストンリングの開発に挑戦。悪戦苦闘の末に生産に成功すると、1939年にアート商会浜松支店を弟子に譲り、自らは東海精機重工業を興す。その製品はトヨタの軍用トラックや中島飛行機の航空機エンジンに使われた。

 だが、終戦を迎えると宗一郎は会社をトヨタに売り、「人間休業」を宣言。遊び暮らしながら次にすべき事業を探していた彼が出逢ったのが、終戦で用済みとなった旧日本軍の無線機用発電機のエンジンだった。終戦翌年の当時は、庶民の乗り物と言えばもっぱら自転車だ。そこで、無線機用エンジンを改造して自転車につけることを思いついた宗一郎は、バラック小屋に「本田技術研究所」の看板を掲げて、開発製造にとりかかる。

 実は自転車用補助エンジンという商品自体は、同時期に各社から登場していた。しかし、無線機用エンジンを分解して改造・調整し、一台一台試運転までして仕上げた宗一郎の製品は他社を圧倒する性能や信頼性を持ち、口コミだけで全国から客がやってくるようになった。

 ただし、無線機用エンジンは、在庫分が売り切れたらもう仕入れられない。そこで独自商品として、大小2つのピストンを備えたユニークな2ストロークエンジンを考案するものの、斬新すぎてうまく作れなかった。のちにホンダコレクションホール開館の際に現代の技術で再現され、見事に高性能を実証して見せた通称「エントツ式エンジン」である。

 それを諦めて1947年秋に発売したのが、ホンダ初のオリジナルエンジン「A型」だ。クランクで回すロータリーディスクバルブで正確な掃気を実現する先進的な設計。しかしなによりすごかったのは、早くも量産を意識して、金型を使うダイキャスト製法を採ったことだ。

 当時の常識だった砂型による鋳造では、型から取り出した製品をやすりなどで仕上げる工程が欠かせない。しかし、「新米工員にもピッと組める」という宗一郎のこだわりで、高価だが精度が出るダイキャスト製としたのだ。ただし、実は当時の技術では出来上がった製品は、ピンホールだらけでオイルやガソリンが漏れた。工場では漏れ止めに漆を塗るという原始的な作業に追われた。

 意あって力及ばずを地で行くような試行錯誤はその後のホンダでも続くが、その挑戦への意欲がホンダイズムの中核であることもまた事実だった。

「A型」の後、「B型」「C型」と改良・発展した自転車用補助エンジンで基盤を築き、1948年に株式会社化したホンダは、1949年8月、初めて車体から開発した「D型」で本格的な2輪メーカーとなる。98ccのこのモデルは、その後長くホンダのオートバイの車名として愛されるドリームの名を冠してデビューした。

 エンジンはC型の発展型だったが、車体は常識的な鋼管ではなく、精度と生産性を両立させる、プレス鋼板によるチャンネルフレーム。美しいマルーンの塗装や、クラッチレバーのない半自動式2速トランスミッションも独創的だった。

 しかし、これがまた失敗。半自動ミッションは当初は注目されたが、ベテランからは不評。しかも、本格オートバイ市場では4ストロークエンジンが主流になろうとしており、まだ2ストロークのD型は、時代遅れとされてしまったのだ。

  • 22歳のときに開業したアート商会浜松支店。本田一人で出発した最先端の自動車修理工場は、やがて従業員50名の大所帯となった。

  • 旧陸軍の6号無線機発電用エンジンを自転車の補助エンジンとして作り替える、そんな発想が世界企業ホンダの始まりとなった。写真はその頃(1946年)に建てられたバラックの浜松山下工場。

A型エンジン生産開始(1947年)

  • ・エントツ式エンジン

本田が初めて造った「エントツ式エンジン」はシリンダーヘッドが煙突状に飛び出した形状で、とくにシリンダー内の掃気の良さが特徴だった。このエンジンを改良し製品化されたのがA型自転車用2サイクルエンジン(0.5馬力)。A型エンジンの生産ではダイキャスト鋳造の研究も進んだ。

A型エンジン用アルミ燃料タンク

初期A型自転車用補助エンジンのアルミ燃料タンクは砂型上下2分割鋳造でつくられている。そのため燃料漏れを防ぐため漆を下塗りしたという。本田はこの頃からお金がかかっても、工数が少なく仕上がりが美しい金型ダイキャストへの転換を急いだ。

エンジンだけでなく車体も製造 「ドリームD型」(1949年)

98ccの2ストロークエンジンを積み、量産を前提としたチャンネルフレーム、また手によるクラッチ操作のいらないコーンクラッチ機構による半自動変速システムを特徴としたが、その変速システムには問題も多かった。車体とエンジンをともに生産した第一号オートバイ。

ホンダ初の4ストロークエンジンを積んだ 「ドリームE型」(1951年)

甲高いエンジン音やまき散らされる白煙など2サイクルを敬遠するユーザーも多く、ホンダは小型かつ高性能な4サイクルエンジンの開発に舵を切る。こうして誕生したのがE型エンジン。この新設計4サイクル146ccエンジンを積んだドリームE型でホンダの技術評価は急激に上がっていった。

  • ホンダを世界的企業に育て上げた立役者とも言われる藤澤武夫と本田宗一郎の出会いは1949年8月。ドリームD型発売直後のことだった。

    提供元:オートメカニック

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