車の歴史
更新日:2018.12.25 / 掲載日:2018.12.25

月刊自家用車とニッポンのクルマ60年

高速道路も新幹線もマイカーもオリンピックと一緒にやってきた

 2020年に開かれる、2回目の東京オリンピックがいよいよ近づいてきた。東京では、競技場や選手村、関連する道路や駅の建設・整備が進んでいる。とはいえ、56年前の前回と比べると、今回のオリンピックの開催がこの国と街に与えるインパクトは、良くも悪くも小さいだろう。
 前回、1964年の日本は、高度経済成長の真っ只中。オリンピックの開催は、続いて大阪で1970年に開催された万国博覧会とともに、今日の日本の基盤を整備する大きなきっかけとなった。
 東海道新幹線も首都高速も、オリンピックの開幕に合わせて開通し、1963年の名神の部分開通から始まった高速道路の建設も、1970年の大阪万博を前に東京-大阪間の全線開通にこぎつけたのだ。
 1950年代には、海外からの視察団に「世界最悪」と評された日本の道路は、1960年代になって、ようやく幹線や都市部での舗装が進んでいく。さらに高速道路の建設が加速し、高速走行の機会が増えてくると、自動車に求められる要素も変化していった。 1950年代までは、もっぱら悪路における信頼耐久性や整備性などが問われたのに対して、高速道路を快適に走れる性能や操縦安定性が重視されるようになっていったのだ。

東京オリンピック、新幹線開業。昭和39年の煌めき

アジアで初めての開催となる東京オリンピックは、日本が世界にその技術力をアピールする絶好の舞台。高速道路やホテル、鉄道などが五輪を目指して建設され、街は一気に近代化する。そして聖火搬送車の大役には国産車「セドリック・スペシャル」が選ばれた。

  • ●白バイにもなった目黒製オートバイ
    戦前からのオートバイメーカーとして知られる目黒製作所は、小型バイク人気の流れに乗れず1964年に川崎航空機工業(現・川崎重工業)に吸収される。ただ白バイにも採用されたKシリーズの技術は、名車「カワサキW1」へと受け継がれた。

●第一期ホンダF1参戦
二輪のマン島TTレースで完全優勝したホンダは、四輪車への進出とともに、F1への参戦にも踏み出していく。当初はロータスにエンジン供給という計画だったが、契約変更によりホンダは車体もエンジンも造るフルコンストラクターとして参戦を決意。デビューマシンRA270は、270馬力を目標とする本田宗一郎の命名と言われる。参戦2年目の1965年、メキシコGPで初勝利を挙げる。

足早にやってきた高速時代

 オリンピックや万国博覧会のような国際的なイベントは、復興国が発展する大きなきっかけとなる。1964年の東京オリンピックは、まさにそんな出来事だった。
 1964年10月10日。前年秋に、ケネディ大統領暗殺の第一報というショッキングなニュースで幕を開けたテレビの衛星中継は、航空自衛隊の戦技研究班=ブルーインパルスが青空に描いた五輪マークを世界に発信して、アジア初のオリンピックの開幕を報じた。
 そのほんの10日前には、世界初の時速200kmで営業運転する高速鉄道=東海道新幹線開通のニュースも、世界を驚かせた。オリンピックは敗戦で貧しい小国に転落したはずの日本が、わずか20年足らずで最先端のインフラや技術を取り戻すきっかけとなり、ふたたび先進国の一員として羽ばたく姿を海外に見せつけたのだ。
 とはいえ、当時の日本の庶民にとっては、まだマイカーは夢。それを手に入れられる裕福な人にとっても、国産車はまだまだ満足のいく乗り物ではなかった。その証拠に、日本初の高速道路として1963年7月16日に栗東~尼崎間が部分開通した名神高速では、ほんの70kmの高速走行に耐えられず、オーバーヒートなどで立ち往生する故障車が、わずか10日間で実に573台に達したのだ。
 今なら携帯電話や非常電話ですぐに救援を呼べるが、JAFはこの年に設立されたばかり。路肩の非常電話もまだ未整備で、故障車のドライバーはボンネットを開けて停車中であることを示し、パトロールに発見されるまでぼんやりと待つしかなかったのだった。
 1964年に発売された3代目コロナが、新たに延伸開通したばかりの一宮~西宮間をふくむ名神高速で10万kmの連続高速走行に成功したことで売れ行きを伸ばしたのも、そんな時代だからこそだった。
 しかし、以後の国産車は性能も信頼性も着実に向上。1966年に登場したサニーとカローラは、高速道路を安心して走れた。高度経済成長で日々豊かになる庶民のマイカー熱は高まり、1969年には、ついに乗用車の販売台数が、トラックやバンなどの商用車を上回る。
 ただし、クルマの大衆化と高性能化は、別の問題を引き起こした。高速道路は1965年に全線開通した名神に続き、1967年12月に中央道の調布~八王子間が、1968年4月に東名の東京~厚木間が開通して、関東圏にも到来する。しかし、道路とクルマの性能にドライバーのマナーと腕がついていけず、たった35kmの東名で、開通当日に死亡事故を含む10件以上の事故が発生。夜には早くも通行止めという事態を招いたのだった。

国産スーパースポーツの登場、世界に飛翔するMADE IN JAPAN

自動車の普及やモータリゼーションの発展を目的とした大衆車が増える一方で、1960年代は豪華さや高性能、デザインでも勝負できる、まるでショーモデルのような型破りな国産車も多く登場した時代だった。

トヨタ2000GT
(1967~1970年)
全高はあの空力スポーツ「ヨタハチ」より45mmも低いハッチバッククーペ。DOHCエンジンや工芸品のような内装には、共同で開発を担ったヤマハの二輪車技術や高級楽器造りが活きる。世界に通用する高級スポーツカーを目指したため、大量生産とは対極の手間のかかる製造工程となり、238万円(現在では2000万円に相当)という販売価格でも1台数十万円の赤字だったという。前期型は大きなフォグランプや白色のウインカーレンズなどが特徴だったが、1968年8月のマイナーチェンジでフォグランプは小型化、ウインカーレンズはイエローに変更された。今なおファンが多く、総生産台数337台という希少価値もあって、中古車市場では信じられない高値で取り引きされている。


生き残るための高性能

 いいクルマとはどんなクルマか、と聞かれれば、今なら自身の暮らしや使い方に合ったクルマと多くの人が答えるだろう。しかし、1960年代の日本の自動車市場とユーザーは、まだまだ未熟だった。
 誰もマイカーを持ったことがない当時の庶民には、そもそも自身の暮らしにどんなクルマが合うのかを判断する材料がない。勢い、カタログに躍る数値性能や、レースでの活躍などの高性能イメージが、いつか手に入れたいマイカーの、憧れの入り口になった。
 かくして、1963年に国産量産車初のSOHC2L6気筒を搭載して、クラス初の100馬力超えを実現したプリンスグロリアは、高級車にもかかわらず新聞広告で「105馬力の高性能!」と謳った。ところが、1962年に完成したばかりの鈴鹿サーキットで開催された第一回日本GPで、プリンス自動車はメーカーがレースに積極的に関与しないという業界の取り決めを馬鹿正直に守り、ライバル各社に惨敗してしまう。
 そこで、捲土重来を期して翌年の第二回日本GPに投入したのが、グロリア用のSOHC6気筒を、本来は4気筒を積むスカイラインのノーズに押し込んだ2000GTだ。これがわずか一周とはいえポルシェの前を走り、観客を熱狂させたことで、スカG神話が生まれる。そして人々の高性能への憧れは、さらに高まっていった。
 当時の自動車メーカーが高性能車を志向する理由は、もうひとつあった。経済成長とともに、戦後長く続いた国内自動車産業保護政策への不満が海外で高まり、1965年に完成車の輸入が自由化されたのだ。それを前に、日本の自動車産業の体力を高めるために、中央省庁は業界の再編を目論む。
 自動車メーカーを大型、小型、商用車の3社程度に統合するその案が実行されれば、中小メーカーは呑み込まれ、新興企業の自動車業界参入も不可能になる。その前に、世界に通用するクルマを開発して見せ、技術や独自の個性を確立することが、生き残りのためには必須になったのだ。
 かくして、東洋工業(現・マツダ)はロータリーエンジンの開発に挑み、2輪で成功を収めたホンダはF1参戦で話題を作りつつ、凝ったDOHCエンジンを積むスポーツカーのS500で4輪メーカーとしての実績を作る。一方、トヨタはヤマハと組んで、名車トヨタ2000GTを発表。その狙いは、世界進出にもあった。
 マイカー時代の到来を睨みながら、各社が生き残りのために、またさらなる世界への飛翔のために、高性能で美しい、世界に通じるクルマの開発に挑んだのだ。

ニッサン・シルビア
(1965~1968年)
第11回東京モーターショーにダットサンクーペ1500として出品。ショーモデルそのままに翌1965年に初代シルビアとして発売された。一台ずつ手作業によるたたき出しで仕上げられたエレガントなボディには、ショーモデルとは違い、90PSを発生する1.6Lエンジンが積まれている。当初はダットサンとして売られる予定だったが、セドリックより高価な120万円という価格もあり、当時高級車に限定されていた「ニッサン」ブランドが使われた。


いすゞ・117クーペ
(1968~1981年)
フォーマルセダンのフローリアンをベースに、イタリアのカロッツェリア「ギア社」がデザインを手がけた4座クーペ。当初いすゞは商品化に消極的だったと聞くが、国内外の自動車ショーなどでのあまりの評価の高さに、ついに商品化を決断する。その繊細なボディラインは、当時のいすゞの生産ラインでは量産できず、職人の手仕事で仕上げられていた。初期モデルがハンドメイドと呼ばれる所以である。


マツダ・コスモスポーツ
(1967~1972年)
小型で高性能、夢のエンジンと言われる一方で、克服不可能とも思える数々の問題を抱えていたロータリーエンジン。マツダは莫大な時間と費用をかけて世界で初めてその量産化を成し遂げる。記念すべきRE搭載第一号は、まるでUFOのような独創的フォルムの2座クーペ。初期型の価格は148万円と高額だったが、その開発費を考えると採算を度外視したものだった。


マイカー時代の主役を競った好敵手

自社の技術力やデザイン力を発信する広告塔としての役割を担う高級モデルを発表する一方で、各社はいよいよやってきたマイカー時代に向けて量販モデルを開発。過激なコマーシャル、先手先手の改良や車種追加でその覇権を争った。

激しい競争が進化の源だった

 暗い土中の種が小さな芽をふき、たっぷりと陽を浴びてようやく果実を成すように、日本のマイカー時代が夢から現実へと階段を上るためには、1950年代に芽生えた庶民の想いが、長い時間をかけて醸成される必要があった。
 その始まりは1955年に明るみに出た国民車構想。当初は夢物語でしかなかったが、そこで示された目標性能は各社の新車開発の指針とはなった。そうして、1958年のスバル360を筆頭とする軽自動車群を皮切りに、1960年代になると国民車構想に近い要件を満たした小型車も出現するようになる。
 1960年の三菱500、1961年のパブリカ、1963年のコルト1000、1964年のファミリアと、庶民のマイカーを狙ったリッタークラスの小型車が、続々と出現するのだ。
 1963年のホンダS500や、1965年のトヨタスポーツ800などの小さなスポーツカーも登場するが、この時代はまだ、スポーツカーはビジネスにはならない。最初に熟した市場は、中堅サラリーマンがターゲットのファミリーセダン。その起爆剤となったのは、1966年に誕生したサニーとカローラだ。
 車名公募などの大々的なマーケティング戦略を経て、1966年4月に発売されたサニーは、開発当初から”サラリーマンに買えるクルマ“をコンセプトとしていた。合理的に設計された軽い車体と、オースチン譲りの4気筒1L・OHVエンジンの組み合わせは、軽快なハンドリングと快適な乗り心地を実現。爆発的な売れ行きを見せ、専門家の評価も高かった。
 ところが、その半年余り後に発売されたトヨタカローラは、さらにその上を行ってみせた。サニーより全ての寸法が一回り大きく、メッキも多用して豪華に見えるボディ。サニーが高級車感覚のコラムシフトを採用したのに対して、カローラはフロアシフトでスポーティな運転感覚を謳う。そしてとどめは、サニーより0.1L大きい、1.1Lのエンジンだった。
 「隣のクルマが小さく見えます」という挑発的な広告とともに、庶民にわかりやすい魅力を提示したカローラは、あっという間にサニーを抜き去る。以後、両車は歴代モデルが国内外で激しい販売合戦を繰り広げ、日本車の技術や信頼性、快適性や環境性能を、世界に知らしめる役割も果たす。
 サニーとカローラだけではない。この時代のクルマたちは、今よりずっと小さなパイを、より激しく奪い合った。狭い国土に世界でも有数の自動車メーカーがひしめき、競争を繰り広げる環境が、その後の日本の強さの源となる。
 その下地は、1960年代のマイカー時代到来とともに作られたのだ。

トヨタ・カローラKE10
(1966~1970年)
価格重視で徹底的に低コストを追求したパブリカと違い、カローラは合理主義を前提としつつ、オーナーの所有欲をくすぐる+αを売り物にした。先行するサニーよりちょっと大きく、パワフルで若々しいを売り物に、新時代の大衆セダンは爆発的なセールスを記録する。
●主要諸元 カローラ2ドアスペシャル(1966年式)○全長×全幅×全高:3845mm×1485mm×1380mm ○ホイールベース:2285mm ○車両重量:700kg ○乗車定員:5名 ○エンジン(K型):直列4気筒OHV1077cc ○最高出力:60PS/6000rpm ○最大トルク:8.5kg・m/3800rpm ○燃料タンク容量:36L ○最高速度:140km/h  ○燃料消費率:22km/L ○最小回転半径:4.55m ○トランスミッション:前進4段、後進1段 ○サスペンション(前/後):ストラット式独立懸架/半楕円リーフリジッド ○タイヤ:6.00-12 4PR ○価格(東京地区):47万2000円

ダットサン・サニーB10
(1966~1970年)
ブルーバードの下を担う、新たな大衆セダンとして若手スタッフを中心に開発されたサニー。家族5人が乗れる優秀なパッケージング、OHVながらよく回るエンジン、価格もカローラより若干安価だった。ゴム製のステアリングの採用など、安全面にも意欲的だった。
●主要諸元 サニー2ドアデラックス(1966年式)○全長×全幅×全高:3820mm×1445mm×1345mm ○ホイールベース:2280mm ○車両重量:645kg ○乗車定員:5名 ○エンジン(A10型):直列4気筒OHV988cc ○最高出力:56PS/6000rpm ○最大トルク:7.7kg・m/3600rpm ○燃料タンク容量:35L ○最高速度:135km/h ○0-400m加速:20.6秒 ○最小回転半径:4.0m ○トランスミッション:前進3段、後進1段 ○サスペンション(前/後):ウィッシュボーン式独立懸架/半楕円リーフリジッド ○タイヤ:5.50-12 4PR ○価格(東京地区):46万円

群雄割拠の大衆車

 1960年代前半の小型車の主なユーザーは、配達車兼休日の足として使う街の商店だった。そこで、ファミリアやコンパーノはまず商用ライトバンを発売し、バリエーションとしてセダンを送り出す。じつはサニーも、当初は商用バンとして経営陣の決済を得ている。一方で、三菱は旧水島製作所がコルト1000F、旧名古屋・京都製作所がコルト1000というまったく異なるモデルをそれぞれ開発。旧中島飛行機の富士重工(現・スバル)は高い志でスバル1000を送り出すも、サニーとカローラの激戦に巻き込まれ、主役の座に就くことはできなかった。

  • コルト1000
    1963年に発売された三菱初の量産型4ドアセダン。977ccOHVエンジンは当時先端だったハイカムシャフト方式を採用し、最高出力51PS、最高速度125km/hを誇った。国内のツーリングカーレースでも活躍している。

  • スバル1000
    カローラ/サニーの牙城に、前輪駆動や水平対向エンジンなどスバルらしい特徴的なメカニズムで切り込んだ。ライバルより若干高めの価格設定ながら、広いキャビン、雪道に強いなど地方のユーザーを中心にファンも多かった。

サーキットでもライバルとなったヨタハチとエスハチ

 ヨタハチことトヨタスポーツ800と、エスハチことホンダS800。ヨタハチはパブリカのメカニズムを使って1965年に誕生。エスハチは1963年登場のS500の発展型として、1966年にデビュー。ライバルとして、レースでも多くの名勝負を繰り広げた。しかし、その性格はまったく違う。空冷2気筒OHVエンジンを積むヨタハチは、45PSの非力ながら優れた空力性能と低燃費を活かして主に耐久レースで活躍。対するエスハチは8000回転も回るDOHCエンジンで、ねじ伏せるような力強い走りを見せた。2台のライトウェイトスポーツは、その優劣より、個性で語られるべき1960年代の名車なのだ。

  • トヨタスポーツ800
    (1965~1969年)
    パブリカの基本コンポーネントで造られた2シータースポーツ。軽量のハードトップは6個のネジを緩めて簡単に脱着できた。わずか45PSの最高出力ながら、軽量かつcd値0.35の空力ボディで最高速は155km/hに達し、エスハチを追い回した。
    ●主要諸元 トヨタスポーツ800(1965年式) ○全長×全幅×全高:3580mm×1465mm×1175mm ○ホイールベース:2000mm ○車両重量:580kg ○乗車定員:2名 ○エンジン(2U型):水平対向2気筒OHV790cc ○最高出力:45PS/5400rpm ○最大トルク:6.8kg・m/3800rpm ○燃料タンク容量:30L ○最高速度:155km/h ○燃料消費率(平坦路):31.0km/L ○最小回転半径:4.3m ○トランスミッション:前進4段、後進1段 ○サスペンション(前/後):ウィッシュボーン式独立懸架/半楕円リーフリジッド ○タイヤ:6.00-12 4PR ○価格(東京地区):59万5000円

  • ホンダS500/600/800
    (1963~1970年)
    4気筒にひとつずつ装着されたキャブレター、当時はレースカーのメカだったDOHCを採用。最高出力を8000回転で発生するオープン2シーターでありながら、若者にもなんとかなった価格。これはホンダ流の国民車への回答でもあったかもしれない。
    ●主要諸元 ホンダS800(1966年式) ○全長×全幅×全高:3335mm×1400mm×1200mm ○ホイールベース:2000mm ○車両重量:720kg ○乗車定員:2名 ○エンジン(AS800E型):直列4気筒DOHC791cc ○最高出力:70PS/8000rpm ○最大トルク:6.7kg・m/6000rpm ○燃料タンク容量:35L ○最高速度:160km/h ○燃料消費率(平坦路):18.0km/L ○最小回転半径:4.4m ○トランスミッション:前進4段、後進1段 ○サスペンション(前/後):ウィッシュボーン式独立懸架/トレーリングアーム独立懸架 ○タイヤ:6.15-13 4PR ○価格(東京地区):65万3000円

小型タクシー向けで勃発したBC戦争

 コロナとブルーバードはファミリーセダンとしても販売を競ったが、それ以上に重要だったのが小型タクシー向けの受注争い。210、310(初代ブル)の時代はダットサンが優勢で、コロナは信頼性でも性能でも後手に回っていたが、高速時代を先取りして投入した3代目コロナでついに販売台数を逆転。対するブルーバードも名車510で対抗、両車の切磋琢磨は国産車のレベルを引き上げていった。

  • トヨペット・コロナT40/50

  • ダットサン・ブルーバード510

N360から始まった軽自動車の馬力競争

 高性能オートバイの技術を四輪にフィードバック、破格の高回転/高性能エンジンを積んだN360の登場は、軽自動車市場を牽引してきたスバルにとっても大きな脅威となった。N360は低価格と高性能で発売と同時に爆発的な売れ行きを記録。スバルをはじめライバルメーカーもツインキャブなどで馬力を高めたスポーツモデルを投入、軽自動車にも馬力競争の波が押し寄せた。

  • ホンダN360T

  • スバル360



提供元:月刊自家用車



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1977年の中古車情報誌GOOの創刊以来、中古車関連記事・最新ニュース・人気車の試乗インプレなど様々な記事を制作している、中古車に関してのプロ集団です。
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