車の歴史
更新日:2021.03.02 / 掲載日:2021.02.28
暁のホンダ史 ~挑戦編~

後発のホンダが放った超高級スクーター 「ジュノオ号」(1954年)
世界初のポリエステル樹脂(FRP)によるボディ、二輪車では類を見ないセルモーターや方向指示器の採用、さらには雨の日の乗車を考えた折りたたみ式の大型風防など数多くのアイデアが盛り込まれた意欲作。冷却不足によるトラブルや重いボディによるパワー不足、さらには高額な値段もあって、総販売台数5880台で生産を終了。
挑戦:1952-1962年 逆風と順風。二輪レースで世界へ
ジュノオの不振と経営危機
「ドリームD型」の失敗を糧に、待望の4ストロークエンジンを搭載して1951年に発売した150ccの「ドリームE型」は、当時としては先進的なOHVのバルブ機構と3速のトランスミッションを備え、登り切れないライバルも多かった箱根の山越えにも成功。発売3年目には年間3万台を売る大ヒットとなり、2輪車のホンダの名を轟かせることになった。
自転車用補助エンジンも、1952年に出た「カブF型」がヒットする。白いタンクに赤いエンジンのデザインも新鮮なら、ついにものにしたダイキャスト製法の外観も美しかったが、なにより成功したのはその売り方だ。
1949年に宗一郎と出逢い、営業を担当して彼の盟友となる藤澤武夫が、全国の自転車販売店にダイレクトメールを送って特約店を募集。それはのちにホンダの全国ネットワークの礎となったのだ。
その後もホンダらしい挑戦と失敗は続いた。1953年に便利な実用車に由来する新規格原付車「ベンリイJ型」を、翌年に富士重工(現SUBARU)の「ラビット」や新三菱重工業の「シルバーピジョン」に対抗するスクーター「ジュノオK型」を出したのだが、特に「ジュノオ」が大不振だった。
2輪車世界初のセルスターターやウインカーの装備、当時は最先端素材だったFRPを使ったスタイリッシュなカウルや全天候型の風防など、2輪の高級車を思わせる意欲的な内容だったが、豪華装備ゆえの重い車重で走りはいまいち。カウルで覆われたエンジンのオーバーヒートという問題も露呈した。そこへ朝鮮戦争終結後の不況が到来し、1954年の後半、ホンダは深刻な経営危機に陥ったのだ。
「マン島TTレース出場宣言」が出されたのは、その危機の直前のことだった。みんなで世界に挑もう、という社内外に向けた檄文は勇ましかったが、その後、軽2輪規格改定に合わせて排気量を拡大した「ドリーム4E型」や「ベンリイJ型」の初期不良に相次いで見舞われ、とどめが「ジュノオ」の不振である。
宗一郎自身が寝ずに原因を究明して、初期不良問題は何とか解決できたものの、会社の存続も危ぶまれる状況下で、藤澤は「あとは自分がなんとかしておくから」と宗一郎をTTレース視察に送り出した。そして藤澤はまるでサーカスのようにきわどい決済や交渉をやりとげて、帰国した宗一郎を出迎えたのだ。
ようやく経営を立て直した1955年に、ホンダは2輪車生産台数日本一となり、レース活動に取り組む余裕もできた。同年の第一回浅間高原レース(第二回から浅間火山レース)などを経て、宣言から5年後の1959年にマン島TTレースに出場し、チーム賞を獲得。1961年には完全優勝を遂げるなど、「レースのホンダ」は世界にその名を轟かせていくことになる。
市販車においても、1957年に登場した250ccスポーツモデル「ドリームC70」が若者の憧れとなった。四角張った神社仏閣型デザインに積まれた2気筒4ストロークエンジンは、7400回転という当時としては途方もない高回転まで回った。その高性能は、パワーが出ることからスポーツモデルではまだ主流だった2ストロークのライバルを凌駕、ホンダの人気を不動のものにした。
しかしなんといってもホンダの名を世界的にしたのは、1958年のご存じ「スーパーカブ」だ。わずか2年足らずで生産を終えた「ジュノオ」や、市場そのものが先細りの自転車用補助エンジンに代わる商品を求め、揃って欧州を視察した宗一郎と藤澤が、現地で見たモペットを参考に日本に合った乗り物をと企画開発したのが「スーパーカブC100」だった。
片手でオカモチを下げ、草履履きで自転車に乗っていた当時のソバ屋の出前持ちにも乗れるよう、左手の操作が不要な遠心クラッチや、踏み込むだけで変速できるロータリー式トランスミッションを採用。泥はねを防ぐ深いフェンダーやレッグシールドには「ジュノオ」での経験を生かした樹脂を使い、悪路に強く乗り心地もいいリーディングリンク式サスペンションや大径タイヤなどを装備した。
それは日本国内だけでなく、「YOU MEET THE NICEST PEOPLE ON A HONDA」のキャッチフレーズで売られたアメリカでも手軽な乗り物として支持されて、荒くれた不良の乗り物という当時の2輪車のイメージを払拭。今年復活した「ハンターカブ」などの派生車も生みながら、今日に至るまで生産が続く名車となった。
1958年8月に開催されたホンダモーターバイク祭。バイクの普及を目的にカブF号など150台あまりが日比谷、新宿、渋谷などを行進した。
女性や初心者にも気軽に乗れるモーターバイクとして開発されたカブF型。「白いタンクに赤いエンジン」という愛称で親しまれた軽快なスタイルに藤澤が整備した販売網もあって、わずか半年足らずで2万5000台を売るヒットとなった。
世界中の人気車の原点 「スーパーカブ C100」 (1958年)
50ccの4ストロークOHVエンジンを搭載し、スカートを履いた女性でも乗れる、前からまたぐステップスルースタイルが話題に。低価格と驚異的な低燃費で鈴鹿新工場が完成する頃には月産3万台という爆発的人気を獲得。
カブレーシングCR100
ポートカブC240

幅広いユーザー向けのカブ号を開発する一方で、ホンダ初の2気筒250cc4サイクルを搭載した高性能バイク「ドリームC70」も発売。パワーは同クラスの2サイクルを凌ぎ7400回転で18PSを誇った。
マン島TTレース&WGPで証明された技術力
イギリスのマン島で行なわれるT.T(ツーリスト・トロフィー)レースは、急坂や連続するコーナーなど過酷な島の道路を使った1周61kmのロードレースで、当時はモーターサイクルのオリンピックとも呼ばれていた。本田は1954年3月、販売店や従業員にT.Tレース挑戦を宣言。その5年後に念願の初出場を果たす。日本人が日本で造った車で走るのはもちろん史上初。125ccクラスにRC142で参戦したホンダチームは6、7、8位と3台全てが完走し、チームメーカー賞を獲得。翌1960年はいよいよ125ccと250ccに参戦、いずれのクラスも1-5位を独占し、その技術力の高さを世界中に見せつけた。レース後、車を分解した地元紙は「車は腕時計のように造られていた。そしてなにもののコピーでもなかった」と書いている。
TTレース出場マシン「RC142」(1959年)

浅間火山レースは日本の2輪史に残る耐久ロードレース。1955年と’57年のレースでは苦杯をなめたホンダだが、’59年の第3回(最終レースとなった)では圧勝。マン島レース参戦に勢いをつけた。

ホンダの第一期WGPを代表する250ccクラス用「RC165」。ホンダの多気筒・高回転思想が生み出した究極の6気筒マシン。

1961年のマン島T.Tレース、250ccクラスで4位となった高橋国光選手とRC162。RC162はWGPでの活躍も有名で、’61年シーズンは11戦10勝、9回も表彰台を独占した。