車の歴史
更新日:2018.12.02 / 掲載日:2018.03.30

名車探訪 MITSUBISHI パジェロ

民生向けにも4WD車が売れ始め、ビッグホーンやジムニーなどライバルが次々に登場する中、いかにも時代遅れのジープは大胆な近代化/乗用車化が必要と訴える開発側。一方販売サイドは、急激な変革でそれまで一番のお得意様だった自衛隊などへの納入に悪影響がでることを懸念していた。そんな葛藤を経て発売された初代パジェロは、折からの好景気やレジャーブームに乗って予想外のヒット。市場の声に応えるべく、年々豪華で快適なクロスカントリー4WDモデルへと進化していった。

民生向けにも4WD車が売れ始め、ビッグホーンやジムニーなどライバルが次々に登場する中、いかにも時代遅れのジープは大胆な近代化/乗用車化が必要と訴える開発側。一方販売サイドは、急激な変革でそれまで一番のお得意様だった自衛隊などへの納入に悪影響がでることを懸念していた。そんな葛藤を経て発売された初代パジェロは、折からの好景気やレジャーブームに乗って予想外のヒット。市場の声に応えるべく、年々豪華で快適なクロスカントリー4WDモデルへと進化していった。

豪華仕様「エクシード」の登場で人気は一気に加速

日本人のクルマ選びが成熟したからこそ、ヒットしたパジェロ
 まったく新しいコンセプトの新型車が世に出るまでには、多くの関門がある。ときにはどれほど出来ばえがよくても、経営陣の理解が得られずに世に出ることなく消えてしまう企画もあれば、開発途中で世の中の状況が変わり、軌道修正されて、まったく別のクルマになるなんてこともある。
 ’82 年に登場したパジェロは、そうした関門を苦労して乗り越え、作り手側が予想していなかったほどのヒットとなった。それは、オフロードカーの代表格であるジープを長年作り続けてきた三菱だからこそ企画され、日本が十分に豊かになった時代に生まれたからこそ、成功した一台だった。
 三菱は1952年からアメリカのウイリスオーバーランド社製ジープのノックダウン生産(部品を輸入して国内で組み立てる)を始めていた。それは同年に発足した保安隊(現在の陸上自衛隊)の軍用車両としての需要に支えられ、建設業や林業、電力会社などの現場でも欠かせない足となった。
 ただし、’56 年にその完全国産化を完了しても、ウイリス社との契約で北米などの先進国への輸出はできず、庶民にはマイカーが遠い憧れの当時は、国内需要も知れていた。そこで、三菱はジープで培 った技術を活かしつつ、ウイリス社のライセンスに抵触しない、オリジナルの4WD車開発を開始。’78 年にピックアップトラックのフォルテとして発売する。
 そのシャシーを使い、ジープやピックアップトラックには求められない、スタイリッシュで快適な本格オフロードカーとして企画されたのがパジェロだった。
 ただし、固定客を相手に、半ば手作りで生産されていたジープとは違い、量産が前提のパジェロの企画は、当初三菱社内でも理解されなかった。大規模な投資で大量生産ラインを組んでも、その回収は難しいと思われたのだ。
 しかし、世界市場で月間1900台という大風呂敷の需要予測で企画を通した開発陣の苦労は、見事に報われた。4ナンバーの商用2ドア車しかなかった発売当初こそ、苦戦したが、クラス初の5ナンバー乗用規格の4ドア車やAT車が出揃った’85 年に年間1万台の大台に乗せ、豪華仕様のエクシードが’87 年に加わると、勢いはさらに加速。2代目の登場翌年の’92 年には、国内だけで8万台あまりを売るベストセラーモデルとなる。
 人々がクルマでライフスタイルを表現する。そんな豊かな時代に、本物のオフロード性能と快適性を両立させたパジェロは、ファッショナブルで個性的な乗り物として爆発的に支持されたのだ。

●主要諸元(’89年式ミッドルーフワゴン・3000スーパーエクシード)
○全長×全幅×全高:4605mm×1785mm×1900mm ○ホイールベース:2695mm ○トレッド(前/後):1435mm/1450mm ○車両重量:1930kg○乗車定員:7名 ○エンジン(6G72型):V型6気筒SOHC2972cc  ○最高出力:150PS/5 0 0 0 r p m ○ 最大トルク:2 3 .5kg ・m/2500rpm ○10モード燃費:6.8km /L ○最小回転半径:5.9m ○トランスミッション:4AT ○サスペンション(前/後):ダブルウィッシュボーン式/3リンクコイル式  ○タイヤ:265/70R15 ○価格(東京地区):333.0万円

  • スーパーエクシードのインパネ。パジェロ自慢のコンビネーション(3連)メーターは、右から高度計/傾斜計/デジタル内外気温計。ちなみに初期モデルは油圧計/傾斜計/電圧 計の配置だった。

  • スーパーエク シードは本革+ファブリックのコンビシートを標準装備。運 転席と助手席はヒーター付き(座面+バックレスト)。

荒れ地から高速まで、その走りを支えた4WD技術

ジープの走破性を受け継ぎ乗用車の快適性も備えた豊かな時代のレジャーツール
 今でこそ、軽自動車からミニバンまで、多くの乗用車で4WDが選べるが、’60年代までのそれは、足元の悪い現場用の特殊車両というのが世界の共通認識。’70年代にスバルが世界初の乗用車型4WDを発売するが、それとて、快適な現場巡回車を求める東北電力の要望から生まれたものだ。
 パジェロ登場以前のジープは、その特殊車両の最たるもの。荒れ果てた戦場を何がなんでも走り抜けるのが目的だから、とにかく堅牢で信頼できることが設計思想だ。
 走破性こそ高かったが、悪路はもちろん、一般道でも長時間の乗車が苦痛なほど乗り心地は悪いし、4WDのメカはガーガーとうるさく、高速道路で横風にあおられると、どこに飛んで行くかわからないほどシャシー性能は低かった。
 日本でも高速道路網の整備が進んだ’70年代には、それではマイカーとしては通用しない。そのころには、乗用車造りのノウハウを十分に蓄積していた三菱の開発陣は、高い走破性はそのままに、ジープのネガを払拭することを目指した。
 ギヤ式のトランスファーを独自のサイレントチェーン方式に改めることで、高速走行でのギヤ鳴りを抑えた。動きの悪い前後固定軸による乗り心地の悪さは、前輪にトーションバーを使ったダブルウィッシュボーン式の独立サスペンションを与えて改善。
 後輪へのドライブシャフトをトランスファーからではなく、トランスミッション後部から引き出すことで、リヤデフのオフセットを正して、しっかりした直進性を持たせた。2WDでの快適で経済的な高速巡航が簡単にできるように、乗車したままで前輪への駆動系を断続できるフリーホイールハブも開発。そのすべてが特殊車両には求められないものだった。
 基本設計の段階で、エンジンの搭載位置から見直すことで前後の重量配分を最適化し、従来のオフロードカーには求められなかった軽快なハンドリングや、横風にあおられてもびくともしない安心感も実現させている。
 ジープの時代から定評のあったディーゼルエンジンを始めとするパワーユニットには、当時三菱が最先端を走っていたターボが積極的に与えられていたのも、オールラウンドクルーザーとしてのパジェロの性格を補強した。
 そうした設計の確かさは、登場翌年の’83年から挑戦が始まったパリ・ダカールラリーでも証明された。なにより誇るべきは、市販車部門での数多くの優勝。ディーラーで買える普通のパジェロが、オフロードのスーパーカーの性能を備えていたのだ。

パジェロのステイタスを一気に高めた世界一過酷なアドベンチャーラリー「パリ・ダカ」

 三菱は’60 年代のコルトの時代から海外ラリーへの挑戦を始めている。’70年代には、初代ランサーがサファリやサザンクロスなどの過酷なラリーで大活躍。市販車に限りなく近いクルマでタフなラリーに挑む、三菱のファイティングスタイルが確立された。
 パジェロのパリ・ダカール・ラリーへの挑戦でも、そのスタイルは踏襲された。初参戦の’83年には、ランサーでの活躍で英雄となったアンドリュー・コーワンがノーマル同然のパジェロで総合11位、クラス優勝の健闘を見せる。翌年には、無改造/改造の両部門でクラス優勝。’85年には、FRPの特製ボディを纏うプロトタイプマシンが、パトリック・ザニロリのドライブで念願の総合優勝に輝いた。
 プロトタイプクラスにポルシェ959などモンスターマシンが立ちふさがった’80年代後半以降も、あくまで市販車ベースのパジェロが、改造クラスでも活躍。パジェロは2008年を最後に同ラリーから撤退するまで、長年にわたってパリ・ダカの主役の一台だった。

  • 舞台を南米大陸に移してもなお20年以上にわたって挑戦し続けた三菱とパジェロのダカールラリーは、2008年を最後に終了となった。

  • 写真は2008年パジェロエボリューションの勇姿。

パジェロの源流~三菱ジープ物語

自動車メーカー三菱の戦後の歩みはジープから始まった
 戦後、多くの日本の自動車メーカーは、欧米に遅れていた自動車技術を学ぶために、海外のメーカーと提携した。そのきっかけは、’52 年10 月に当時の通産省が発表した「乗用自動車関係提携及び組立、契約に関する取扱方針」だった。
 それを受け、日産がオースチン、いすゞがルーツ(ヒルマン)、日野がルノーなど、日本の市場に合った小型車を得意とする欧州のメーカーとの提携を進める中、三菱は他社とは異なるアメリカのメーカーと手を組んだ。通産省の方針が固まる前の’51 年から、戦後の財閥解体で分割されていた旧三菱重工グループの東日本重工業が、カイザーフレーザー社のヘンリーJという2 ドアセダン車のノックダウン生産を始めたのだ。
 ただし、それは日本の路上では大きすぎ、使いにくい2ドアボディ。販売は芳しくなく、提携は早々に解消されている。それに続いて、同グループの中日本重工業が新三菱重工業と改称後の’52 年に手を組んだのが、ジープを作っていたウイリスオーバーランド社だった。
 中日本は’50 年に勃発した朝鮮戦争当時には、戦地に送られる米軍用ジープの整備・修理も手がけていた。さらに、朝鮮戦争で手薄になる日本国内の防衛を担うために、 GHQの指示で警察予備隊(のちに保安隊を経て陸上自衛隊)が発足。その制式車両としての需要も見込まれたのが決め手だった。
 事実、三菱製のウイリスジープは、トヨタジープBJ型(のちのランドクルーザー)や日産サファリを退けて自衛隊の制式車両となり、自動車メーカーとしてはよちよち歩きの三菱を支えた。
 戦時中は零戦なども造っていた三菱の技術力は、ジープの独自の改善にも活かされ、完全国産化後はエンジンの高性能化やディーゼルエンジンへの発展、ワゴンボディなどの独自車型も開発された。
 それらの多くを実際に造っていたのは、三菱の協力会社の東洋工機。職人の手叩きの鈑金ボディなど、ジープで少量生産の実績があった同社は、パジェロの製造も担うことになった。新型車の販売台数が予測しにくい中、三菱本体に大がかりな設備投資をするリスクを避けるために、小回りの利く外注先として選ばれたのだった。
 当時の同社はベルトコンベアもない中小企業だったが、パジェロの爆発的な人気で急成長。’95 年にパジェロ製造と社名も変え、’03 年には三菱の完全子会社化。所在地の岐阜県坂祝町の税収の3分の1を同社が占め、町の特産品にパジェロと記されるまでになった。パジェロは、ひとつの自治体の命運をも背負うクルマになったのだ。



提供元:月刊自家用車



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