ゼネラルモーターズ
ゼネラルモーターズ (General Motors Corporation) はアメリカ合衆国ミシガン州デトロイトに本社を置く企業で、アメリカのビッグスリーの一角。略称は「GM」。
創生期〜第二次世界大戦まで
1908年9月16日に、ウイリアム・C・デュラントがミシガン州フリントで組織した持株会社がゼネラルモーターズである。ビュイック・モーター(1903年創業)の経営を1904年に任されたデュラントは、社長としてビュイックを全米有数の自動車メーカーにした。デュラントはゼネラルモーターズ創設後、1908年末にオールズモビルを買収し、翌年にはキャディラック、エルモア、オークランド(後のポンティアック)などを買収してGMの一部とした。その後もミシガン州周辺のトラックメーカーを次々買収するが、1910年には買収費用により100万ドルの負債を抱えたデュラントはGMの支配権を失い、バンカーズ・トラストが会社の支配権を握った。
デュラントはその後シボレーの創立(1911年)に関わり、GMの株を買い戻して1916年には社長に返り咲き、シボレーを翌年GMの一部とした。彼の背後には1914年に最初の投資を行って以降1950年代までGMに関与し続けたデュポン社の社長ピエール・S・デュポンがいた。
1920年にピエール・デュポンはデュラントを追い出してGMの実権を奪い、アルフレッド・スローンの経営によって現在に繋がる経営基盤が確立され、政争に揺れたフォードを抜いて世界最大のメーカーとなった。商品方針は「どんな予算でも、どんな目的でも」。このために複数のブランドを所有し、北米では最下段にシボレー(1990年からサターンがシボレーとは別にベーシックブランドとして登場した。また、ジオというブランドが最下層として存在した時期があった)、最上段にキャディラックを位置付け、巧妙なマーケティングと、それに直結したスタイリング戦略で衆目を引き続け、業界シェアナンバー1であり続けた。消費者はGMの提供する上級ブランドに魅せられ、GMの金融サービスによるオートローンやクレジットで高額のブランド車を買うようになった。GMはこうしてクレジット商法を拒んだフォードを突き放した。
1920年代から1930年代にかけてGMはバス製造会社イエローコーチを買収し、グレイハウンド社の創設を手助けした。またGMは1936年に石油会社スタンダード・オイル・カリフォルニア(のちのシェブロン)やタイヤ会社ファイアストンと共同で「ナショナル・シティ・ラインズ」を創設し、1950年までに全米各地の路面電車会社や電鉄会社を買収し、これをバス運送に置き換えていったが、これは後に自動車関連各社による鉄道縮小の陰謀として非難を浴びた。(その詳細と正確性についてはアメリカ路面電車スキャンダル、パシフィック電鉄を参照)
GMは航空機製造に関心を示し、1930年にフォッカーの子会社アトランティック・エアクラフト・コーポレーション・オブ・アメリカを買収しゼネラル・アビエーション部門とし、1933年にはノースアメリカンを買収してノースアメリカンを存続企業としたが、1948年に株を公開し、これ以降航空機には関わっていない。
また初期のフォードは1つの車種を世界中で生産したが、GMは初期から各々の地域毎に多種多様な車種を供給し、そのために南北アメリカ、ヨーロッパ、アジア、オーストラリアなど世界中に生産拠点を設けた。1925年(大正14年)のアジアを視野に入れたフォード社日本進出に続き、1927年(昭和2年)から1941年(昭和16年)まで、大阪に日本法人日本ゼネラル・モータースを設立。シボレー車のアジア向けノックダウン生産および、販売サービスをおこなった。昭和初期の日本国内は、GMのシボレー車とフォード車の独擅場だった。
ドイツではGMはオペルを1931年に子会社とするなど活発な投資を繰り広げ、ドイツでの自動車製造を利益の大きな重要事業とみていた。ナチス台頭後はオペルはGMの支配を離れ、GMはイギリスの子会社ヴォクスホールなどを通じ戦車など軍用車両を製造して第二次世界大戦下で連合軍を支えたが、一方でオペルはナチスの欧州侵攻を支え、GM首脳グレアム・K・ハワードやジェームズ・D・ムーニーらはナチスに個人的に深くかかわり、ムーニーは戦争前にヒトラーから受勲するなどしている。
第二次世界大戦後〜1990年代
戦後、1950年代にはGMはアメリカ最大の会社となり、1953年には社長チャールズ・E・ウィルソンはアイゼンハワー政権の国防長官となった。1955年12月末には、GMはアメリカで最初に年10億ドル以上を稼ぐ企業となった。
1970年代以降、オイルショックによって小型車の需要が高まると、それまでアメリカ国内で開発して来た小型車(コーヴェア、ヴェガ等)をオペル、いすゞ等の開発協力を得たモデル(『Tカー』、『Jカー』等)に代替するなどの販売戦略の転換が進められたが、品質と生産性の悪化が顕著となり、1981年から1990年まで会長職にあったロジャー・スミスの下、さまざまな取り組みが進められた。1984年にはトヨタ自動車との合弁会社『NUMMI』を設立し、QCに関するノウハウの吸収に努めたほか、アメリカ国内の工場のリストラ、労働条件の引き下げといった生産性を向上する取り組みにも着手した。日本車やドイツ車のコンセプトを模倣したサターンや高度にロボット化された工場の失敗などはあったものの、1990年代初頭には一定の成果を見せるようになった。また、1990年代を通じたアメリカの好景気は、フルサイズSUV・ピックアップトラックなどの需要を生み出し、アメリカ国内のシェア低下には歯止めが掛からなかったものの、高い利益率は好業績を維持することに貢献した。
2000年頃〜現在
2000年頃からは環境保護問題の高まりなどの外部環境の変化を受け、消費者の嗜好は再び燃費の良いサブコンパクトカーやハイブリッドカーにシフトしたが、GMは小型車部門のジオを整理・縮小していた。また2001年のアメリカ同時多発テロ事件直後に販売量が落ち込んだ際には、生産量を落とさない方針を採ったため次第に在庫が増加。在庫を捌くために販売店へのインセンティブの上乗せや値引き販売を激化させる悪循環に陥り、2005年までに企業収益は一気に悪化した。過去の従業員の退職年金や医療費負担なども財務を圧迫し続け、格付け会社からは社債を「投資不適格」にランク付けされるに至り株価は低迷、株式投資会社の介入を招く事態にもなった。部品調達で密接な関係を持つデルファイが経営危機を迎えた際にも、直接救済する体力は無かった。
2005年以降は、提携先の株式の処分も進められている。10月には、資本提携していた富士重工業株をトヨタへ売却、2006年にはいすゞ自動車株を売却し資本提携を解消、2006年3月には、スズキ株の大半を売却し、2008年11月18日付で資本提携を完全に解消した。こうした株式の処分は特別利益となり経営体質の改善に直結するが、一方でGMの伝統である、地域毎に多種多様な車種を生産し融通し合うという特徴(サブコンパクトカーの開発・生産はスズキやいすゞが担った)を薄めることであり、今後の商品開発力低下を危惧する見方もある。
2006年7月には、カーク・カーコリアン率いる投資会社トラシンダから、ルノー=日産アライアンスとの提携を推奨され協議に入ることが大々的に報じられたが、GM首脳部には提携の意志はなく、同年10月中に破談し交渉は終了している。
2007年の自動車販売台数は、トヨタ自動車グループと僅差で世界一(937万台)であったが[1]、ガソリン価格の高騰、サブプライムローン問題の顕在化、果てはリーマンショックなどの影響で、北米での売上が大きく落ち込んだ。その結果、2007年度決算で3兆円という途方もない額の赤字を生むこととなった。また、2008年上半期では約77年間も守り続けた販売台数世界一の座も明け渡している[2]。
日本での販売と日本法人
1915年(大正4年)創業の梁瀬自動車(現ヤナセ)が、輸入代理店として、GMのビュイック、キャディラックの販売を開始。ビュイックはビウイク号、キャディラックはカデラツク号だった。のち、シボレー号も販売開始。
1925年(大正14年)、フォード社が日本に進出、神奈川県横浜市に組立工場を開業した。GMは1927年(昭和2年)、大阪市大正区鶴町に日本法人日本ゼネラル・モータースを設立し、組立工場でのシボレー車のノックダウン生産と販売をおこなう。1941年(昭和16年)まで操業。フォード同様、日本だけでなく中国などアジア全体を視野にいれた進出だった。日本における影響は大きく、全国に渡る自動車販売サービス網を構築し、以後の自動車販売業界はここから発展したものである。昭和初期の日本国内は、GMのシボレー車とフォード車の独擅場だった。
1936年の自動車製造事業法施行により、国産メーカーのみに大量生産が許され、発展の余地がなくなり、1941年太平洋戦争開戦の年に日本から撤退。第二次世界大戦後、再びヤナセが日本市場の販売代理店を長期間つとめる。
現在、日本法人は日本ゼネラルモーターズ (GMJ) とゼネラルモーターズ・アジア・パシフィック・ジャパン (GMAPJ) の2社がある。2006年より、恵比寿ガーデンプレイス(東京都渋谷区恵比寿)から品川シーサイド(東京都品川区)へ本社を移転した。

